後半です。もちろん、もれなく鶯が出てきます。
〈本文〉
あるやうこそはとて、もて参りてさぶらひしを、『なにぞ』とて御覧ずれば、女の手にて書きて侍りける、
勅(ちよく)なればいともかしこしうぐひすの
宿はととはばいかが答へむ
とありけるに、あやしくおぼしめして、『何者の家ぞ』とたづねさせ給ひければ、貫之のぬしの御女(みむすめ)の住む所なりけり。『遺恨(ゐこん)のわざをもしたりけるかな』とて、あまえおはしましける。繁樹今生(こんじやう)の辱詬(ぞくがう)は、これや侍りけむ。さるは『思ふやうなる木もて参りたり』とて衣(きぬ)かづけられたりしも、からくなりにき』とてこまやかに笑ふ。
〈juppo〉日付が変わってもう3月です。ちらほら梅が咲き始めていますね。梅に鶯は当時から切っても切れない関係で、梅あるところ鶯あり、なのにその鶯ほったらかしで梅だけ移動させてしまった失敗の記録でした。
どんなに偉い人の命令でも、鶯の意見を無視して梅を持ってきてはいけない、という教訓がある話では別にありません、が、そんなことにも遺恨を感じる風流、が主題でしょうね。
「辱詬」は恥辱のことで、命令とはいえ実行したことを繁樹さんは大いに恥じております。それでいて最後の「こまやか」な笑いというのは、ちょっぴり笑っているというより、「心から」とか「心の底から」笑うという意味だそうです。恥じているのか。一生の恥であっても遠い昔のことになってしまうと「何もかも懐かしいなぁ」と温かい気持ちになるのか、ちょっとそんな感覚もわかるお年頃の私です。
今でも使う言葉でも意味が違うと厄介ですね。「あまえ」が「恥じる」の意味だとか。終止形は「あまゆ」なんです。深く考えずに読んでいると、「なに甘えてんだ」な感想を抱くことになってしまいますね。
「貫之のぬしの御女」の貫之とは、そうです紀貫之のことです。その娘とはこれまた歌人の紀内侍(きのないし)なんですね。「ぬし」は前回も出てきて、説明しませんでしたが敬称です。「〜殿」などと同じ働きだそうです。
久しぶりの大鏡はこれにて終了です。次回はまた漢文、かもしれません。