〈本文〉
これを見つけて、翁かぐや姫に言ふやう「わが子の仏、変化(へげ)の人と申しながら、ここら大きさまで養ひたてまつる志おろかならず。翁の申さん事は聞き給ひてむや」と言へば、かぐや姫「なにごとをか、のたまはん事はうけたまはらざらむ。変化の物にて侍りけん身とも知らず、親とこそ思ひたてまつれ」と言ふ。翁「うれしくものたまふものかな」と言ふ。「翁、年七十に余りぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、をとこは女にあふ事をす。女は男にあふ事をす。その後なむ門ひろくもなり侍る。いかでか、さることなくてはおはせん。」かぐや姫のいはく「なんでふさることかし侍らん」と言へば「変化の人といふとも、女の身持ち給へり。翁のあらむ限りはかうてもいますかりなむかし。

〈juppo〉久しぶりの『竹取物語』です。
この場面は、教科書などにはあまり載っていないかも知れません。熱血求婚者たちに、今後かぐや姫の無理難題が突き付けられる訳ですが、求婚者たちはそもそもかぐや姫に会うことさえ出来ないでいたのですから、その会うきっかけを作ったのが、ここでの翁の説得だった訳ですね。
冒頭の「見つけて」は、発見したという意味ではなく、見ることが度重なって、という意味です。
「変化の人」とは妖怪変化などの意味と同じですが、この頃は仏教用語で、神や仏が人の姿で現れたのを指したそうです。
親が生きているうちはひとり身でいてもいいが、その後の事を考えると・・という翁の訴えは説得力がありますね。
人の世では結婚するのが当たり前だからお前もしろ、という説に「何で私が」と納得しないかぐや姫にも共感しますけれども。
私も耳が痛い話なんですが、その話はまた。
中途半端なところで切ってしまいましたので、続きは近日中にお届けします。
この話を描いていて、映画『晩春』を思い出しました。
いつまでも結婚しない原節子に縁談を勧める父・笠智衆との終盤のシーンです。
ずっとお父さんと一緒に暮らしたい、お嫁になんか行かないと、ファザコン丸出しでごねる原節子に、「幸せに、なるんだよ。」と、ほぼ棒読みの笠智衆。泣けます。