〈本文〉
「羅(うすもの)の表紙は、とく損ずるがわびしき。」と人のいひしに、頓阿(とんあ)が、「羅は上下(かみしも)はつれ、螺鈿(らでん)の軸(ぢく)は貝落ちてのちこそいみじけれ。」と申しはべりしこそ、心まさりて覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都(こうゆうそうづ)が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなきもののする事なり。不具なるこそよけれ。」と言ひしも、いみじく覚えしなり。
「すべて、何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏(だいり)造らるるにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり。」と、ある人申しはべりしなり。先賢のつくれる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたる事のみこそはべれ。
〈juppo〉そうそう、書き忘れていましたが、前回の『文字一つ返し』を描くのにも図書館で『十訓抄』を借りて来たんですよ。教科書や参考書ではちらちら見るのに、『十訓抄』って意外にマイナーな古典のようで、図書館で検索した挙げ句、雲の上くらい高い棚にあるらしかったので、職員の人を梯子に登らせて借りて来ました。
『徒然草』はその点、手元にいくらでも訳があるので助かります。
今回は鎌倉時代の出版業界の話ですね。「羅」は薄手の絹織物のことで、当時は本の表紙にそれを使っていたんでしょう。多分高級で多分繊細な布地なので、「読んでるうちにボロボロになっちゃうよ!」というようなモノだったんですね。
ところが見る人が見れば、「そういうところがいい」と。書物は本来、人の手に触れて読まれることが前提のものですからね。
でもBOOK OFFでは高く売れないでしょうね。
何巻も続く本が各巻バラバラの装丁になっている、というのも現代では考えられないことですが、当時は大手出版社とか著作権なんてなかったのですから無理もないですね。
集めて読んでいる人にとっては見苦しいことこの上なかったでしょうけれど、これまた見る人が見れば「それがいい」と。
頓阿という人は歌人で、弘融僧都は「法顕三蔵の、天竺に渡りて」という段にも登場した『徒然草』の準レギュラーですが、後半に登場する「ある人」は誰だか分かってないらしいです。
その「ある人」の言う「生き延ぶるわざ」とは、やり残した仕事を見た人が「生き延びた心地がする」という解釈と、やり残された仕事自体が「生き延びている」という解釈と、二つの説があるようです。
何でも、やりかけのことはまだ手を入れる余地がある訳ですし、それをする人も、やらなければならない義務がまだ残されているうちは人生を終える訳にはいかない、という考え方ができますよね。
私には二説とも正解なんじゃないかな、と思えました。
そういう意味で、何でもやりかけにしてしまうのが得意な私です。中途半端なだけに見えるかも知れませんが、長く生きる秘訣なんですよ、とこれからは堂々と言おう。
それにしても暑いですね。毎日雨が降るのに毎日30度くらいになるのはどういうことなんでしょうか。
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演劇部の台本がボロボロになるのも味がありますょ←
毎日20℃になるかならないかくらいです
私多分30℃もあったら死んぢゃいます(・・;)アセッ
くたびれた本にはそれなりに愛着が湧くものですよねー。
教科書もキレイなままよりボロボロの方が「勉強してますっ!」って感じがするし(^O^)
結局今日は雨も降らず、タダの真夏日でしたよ。
もうぐったりです(@_@;)