順調に更新します。続きです。
〈本文〉
「私の従者(ずさ)をば具(ぐ)しさぶらはじ。この陣(ぢん)の吉上(きちじやう)まれ、滝口(たきぐち)まれ、一人を『昭慶門(せうけいもん)まで送れ』と仰せ言(ごと)たべ。それより内には一人入(い)り侍(はべ)らむ」と申し給へば、「証(そう)なきこと」と仰せらるるに、「げに」とて、御手箱(おほんてばこ)におかせ給へる小刀(こがたな)申して立ち給ひぬ。今二所(ふたところ)も、にがむにがむ各々おはさうじぬ。
「子(ね)四(よ)つ」と奏(そう)して、かく仰せられ議(ぎ)するほどに、丑(うし)にもなりにけむ。
「道隆は右衛門(うゑもん)の陣より出(い)でよ。道長は承明門(しようめいもん)より出でよ」と、それをさへ分かたせ給へば、しかおはしましあへるに、中関白殿(なかのくわんぱくどの)、陣まで念じておはしましたるに、宴(えん)の松原のほどに、そのものともなき声どもの聞こゆるに、術(ずち)なくて帰り給ふ。粟田殿(あはたどの)は、露台(ろだい)の外(と)までわななくわななくおはしたるに、仁寿殿(じじゆうでん)の東面(ひんがしおもて)の砌(みぎり)のほどに、軒と等しき人のあるやうに見え給ひければ、ものもおぼえで、「身(み)のさぶらはばこそ、仰せ言(ごと)も承(うけたまは)らめ」とて、各々立ち帰り参(まゐ)り給へれば、御扇(おほんあふぎ)をたたきて笑はせ給ふに、
〈juppo〉大分夜更かしをしている殿上人たちです。午前2時の丑三つ時になって、帝はノリノリです。肝試しのルートを決めてますね。
「陣」はここでは、警護の役人が詰めている所です。「吉上」、「滝口」はそれぞれ役職名です。
「昭慶門」は道長の目指す「大極殿」の前にある門です。
「右衛門」は門の開け閉めなどを担当する人たちのことで、門が左右にあるうちの右側の門です。「承明門」はその門とは違う方向にあって、出口から別々に行けと言ってるのですね。
「宴の松原」は道隆の向かう豊楽院の手前にあったらしい松林のことのようです。「露台」は建物の一部で、屋根のない台のことですが、ここでは建物と建物の間にある渡り廊下のようなところだそうです。
このように、建物の名前やら建築様式の呼び名やらがたくさん出てくるので、地図を描こうかと思いましたが、どこまで行ったかはそんなに重要じゃないと思って描かないことにしました。
内裏図は辞書や便覧などにも載っているはずですので、お手元にある方は参照しながら3人の肝試しルートを辿ってみるのも面白いかと思います。結局、道隆が一番近い所で脱落した模様です。ほとんど外に行ってない感じですけど、なにしろ夜中の2時で平安時代ですからね〜。外には魑魅魍魎がうろついて陰陽師と戦いを繰り広げていた時代です。
それにしても、というかそんな時代だからなのか、肝試しなんてやってたんですね〜、昔の人も。物の怪と共存してた時代の肝試しは「試す」レベルでは終わらないのではないかと案じられますが、深夜に、明かりもあまりない所で、一人で行って何かして帰ってくる、という肝試しルールが1000年前から変わらずに21世紀に継承されていることに感銘を受けますよね。
残るは道長の行方だけですね。あと1回、続きます。
2014年03月11日
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