〈本文〉
心のどかに暮らす日、はかなきこと言ひ言ひの果てに、我も人もあしう言ひなりて、うち怨(えん)じて出づるになりぬ。端の方(かた)に歩み出でて、をさなき人を呼び出でて、「我は今は来じとす。」など言ひ置きて、出でにけるすなはち、はひ入りて、おどろおどろしう泣く。「こはなぞ、こはなぞ。」と言へど、いらへもせで、論なう、さやうにぞあらむと、おしはからるれど、人の聞かむもうたてものぐるほしければ、問ひさして、とかうこしらへてあるに、五、六日(いつかむいか)ばかりになりぬるに、音もせず。例ならぬほどになりぬれば、

〈juppo〉『蜻蛉日記』は以前、「町の小路の女」てのを描きました。自分でブログのカテゴリから確認しました。4年前の夏、ちょうど母が入院していた日々に描いてたんですね〜。そんなことも自分で読んで思い出して懐かしかったです。おかげさまでその後母は元気です。風邪もひきません。
私の回想はともかく、その「町の小路の女」では、この日記の著者である藤原道綱母が結婚したばかりの頃で、道綱が生まれたりしてるんですけど、夫である人が来たり来なかったり町の小路の女のもとに通っていたり、めっぽう気の休まらない日々の苦悶を訴える日記になっていましたね。
今回は、その時から12年経っているようです。この本文を参照した古典の教科書の注釈に、このとき道綱12歳、と書いてあったからです。あ、当時は数え年でしょうか?だったら10年くらいですね〜。そのくらいだと思っといてください。
子どもが12歳になった夫婦なのに、見事に新婚当時と同じ不仲っぷりです。不仲といっても衝突が多いだけで、コレがこの夫婦の正しいあり方なのかもしれませんが。
ここで重大なお知らせ。
夫である人というのは、藤原兼家なんですね。スミマセン、4年前には確認せずに絵にしてました。兼家といえば『大鏡』にも登場する人物ですが、多分そんなにキャラ立ちするほど描いてないので、いつもと同じ男の人の顔になってます。
言い争いの原因は些細なことだった、というのはよくあることですよね。何を言ったか言われたかが問題なのではない、その後の態度が問題なんですね。子どもに捨て台詞を言って一方的に出て行く男はどう見ても大人げないです。日記に登場する本人以外の人物は、こんな風に人でなしになってしまう傾向はありますけれど。
それでも彼女は、夫に来てほしいんですね。いつもいる人だから言えるあれこれだったわけで、会いたくない訳ではないんですねー。
ちょっと長いので、2回に分けて描きます。
リクエストをいただいたとき、「ゆするつき」ってなにかな〜、とぼんやり考えるだけでしたが、その後それが何のことか、わかりました。今回はまだ登場しないので、説明も次回にします。
近日中に。
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