最終回でーす。
〈本文〉
そののち世静まつて、「千載(せんざい)集」を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま、言ひおきし言の葉、今さら思ひいでてあはれなりければ、かの巻き物のうちにさりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字(みようじ)をば表はされず、故郷の花といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、よみ人知らずと入れられける。
さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。
〈juppo〉「千載集」は、1183年に作りましょうというおふれが出て、1188年に完成したということです。俊成さんの息子の定家も手伝ったようなので、ちょこっと登場させておきました。
忠度さんは1184年に没しています。もうこの時はいないのですね。巻き物に百首余りだか歌を書き集めたのに、入れてもらえたのは一首だけ、それも朝敵となってしまったため本名は載せられず、「よみ人知らず」になったという顛末なのでした。
「勅勘の人」の勅勘とは天皇のおとがめのことで、それを受けている人が「勅勘の人」なんですね。死んだ後でも罪人は罪人、という扱いですね。
「さざ波や」は「志賀」の枕詞、「ながら」が「長良山」と「昔ながら」との掛詞になっています。
歌の作者が「よみ人知らず」なのは、誰が詠んだかわからないからではなく、こうした理由によるものもあるのですね。でもここにその秘密は明かされているので、本当の意味で「よみ人知らず」ではないですよね。公然の秘密、てことだったんでしょうか。
忠度は俊成さんの弟子でもあったので、師弟愛からの同情もあるでしょうし、俊成さんとしては身分や立場を忘れて文芸を評価したい気持ちが歌人の心としてあったんじゃないでしょうか。いい歌がたくさんあるのに、政治的な理由で選べないことには忸怩たる思いがあったであろう、というお話ですね。
2019年01月22日
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