〈本文〉
つくづくと思ひつづくることは、なほいかで心ととく死にもしにしがなと思ふよりほかのこともなきを、ただこの一人ある人を思ふにぞ、いとかなしき。人となして、うしろやすからん妻(め)などにあづけてこそ、死にも心やすからんとは思ひしか、いかなる心地してさすらへんずらんと思ふに、なをいと死にがたし。「いかがはせん、かたちをかへて、世(よ)を思ひ離(はな)るやと心みん」とかたらへば、まだふかくもあらぬなれど、いみじうさくりもよよと泣きて、「さなりたまはば、まろも法師(ほうし)になりてこそあらめ、

〈juppo〉正直、私は『蜻蛉日記』を全編通して読んだことはないのですが、おそらくどこを切り取っても、通う夫の身勝手さと待つ妻の穏やかならざる狂おしい胸のうちが綴られた日記なのだな、という感想をだんだん持つに至っています。
しかし今回は冒頭から「死んでしまいたい」ですからね。この場面の前に一体何があったのか大変気になりますが、ちょっと遡って読んでみても夫が来たり来なかったり、来ても素っ気なかったり、な日々で極めて平常運転なんですよ。この夫婦としては。
「死んでしまいたい」ほどの気持ちというのも、この日記の読者からしたらそれほどの落差のない筆者の落ち込みなのかもしれません。でも死にたくなる本人にとっては大問題ですよね。
この時代、この夫婦のような通い婚では、妻の実家が夫の面倒を一切見ることになってたそうで、「うしろやすからん妻」に預けたいというのも、そういう家柄のしっかりした嫁に、ということでしょう。ということは、筆者も夫・兼家の生活を担っていたということですよね。それなのに待たされるだけだったら死にたくもなりますかねぇ、やっぱり。とは言え、可愛い息子のことを思えばそう簡単には死ねない、というのも人情です。息子・道綱がこの時何歳なのかよくわからないんですけど、元服前だそうですし、深く物事を考える年でもないらしいので「この子を残して死ねない!」と思える幼さなんだろうと思います。
生きていても何も良いことなんてない、死んでしまいたいと、もし今そんな気持ちでこれを読んでいる方がいたら、ちょっとでも良いので考えてほしいです。そんなふうに何か一つでも「〇〇のために今は死ねない!」というものはないですか。子どもじゃなくても「ペットの猫ちゃんの面倒を見続けるためには」とか、「残される子が不憫」とは逆に「自分の遺伝子を残すまでは」とか。「来週のMステを見るまでは」やら「闇金ウシジマくんの最終回を読むまでは」なんて、本当〜に些細なことでも良いと思います。「〇〇までは」な目標を見つけてください。見つけ続けてください。そうしているうちに、「別に今死ななくてもいいんじゃないか」と思える日が来るかもしれません。そして必ず、「生きてて良かった!」と思える日が来ます。絶対に。
道綱の母も、死にたいと言いながら死んでいません。日記を書き続けて後世に残してるんですからねー。尼になる選択肢も出ていますね。「かたちをかへて」は「頭」の形を変えることなんですね。「世」はここでは夫婦の仲のことだそうです。
続きがあります。「鷹を放つ」というタイトルなのに、鷹が出てきませんでしたが次回に登場します。乞うご期待です。
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