〈本文〉
昔、閑院大臣殿、三位中将におはしける時、わらはやみを重くわづらひ給ひけるが、「神名といふ所に、叡実(えいじつ)といふ持経者(ぢきやうしや)なん、わらはやみはよく祈り落し給ふ」と申す人ありければ、「この持経者に祈らせん」とて、行き給ふに、荒見川の程にて早う起り給日ぬ。寺は近くなりければ、これより帰るべきやうなしとて、念じて神名におはして、坊(ばう)の簷(のき)に車を寄せて、案内を言ひ入れ給ふに、「近比(ちかごろ)蒜(ひる)を食ひ侍り」と申す。

〈juppo〉昨年よりコロナに翻弄される世界になってしまってから、昔から人類はこうして疫病と戦ってきたわけだし、古典作品にもその有様を描いたものがあるのではないかと思い、探したところ、いくつか見つかったうちの一つです。
ここでの疫病「わらはやみ」は「おこり」と訳してありますが、「おこり」が一体何なのかというと、マラリヤのことのようです。
持経者というのは主に法華経を読むお坊さんです。そのお坊さんにお経を読んでもらって、マラリヤの類であるおこりを治してもらおう、という話です。
病をおして出かけていく閑院大臣殿とは、藤原公季(ふじわらきんすえ)と言って藤原師輔(もろすけ)の子、とかいうことです。発熱中なので、マスクをしてもらいました。この時代にこのようなマスクはもちろんなかったと思うのですが、あくまでも演出です。
発作が起こってしまった荒見川の辺りとは、今は紙屋川というそうです。東京もんには耳慣れない川です。この川と公季さんのご自宅がどの程度の距離なのかもよくわからないですが、とにかくここまで来たなら寺へ行ってしまえ、という程度の距離なんでしょう。
そうまでして辿り着いた寺では、お目当の坊さんが「蒜を食ひ侍り」と言って面会を渋っているのです。口臭を気にしてのことのようです。
無事にお経を読んでもらえるのかどうか、続きます。全部で3回です。
マスク生活もすっかり当たり前になってしまって、ノーマスクの人を見ると見てはいけないものを見てしまったくらいの感覚を覚えますよね。
もうマスクしなくてもいいよ、という日は訪れるのでしょうか。訪れて欲しいですね。
久しぶりにマスクを外した人の顔を見ると、ちょっと老けて見えたりするかもしれません。中には「あれ?前と何か顔が違うな」と思える人もいたりするかもしれません。マスクの下はずっと工事中でした、みたいな。