寒くなったので、腹巻きでも編もうかなと考えています。続きです。
〈本文〉
この詩、いとかしこく人々感じまうされきこのことどもただちりぢりになるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせたまへりけるを、書きて一巻(ひとまき)とせしめたまひて、後集(ごしふ)と名づけられたり。また折々の歌書きおかせたまへりけるを、おのづから世に散り聞えしなり。世継若うはべりしかば、大学の衆どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうのもの調(てう)じて、うち具してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、みなこそ、忘れはべりにけれ。これはただすこぶる覚えはべるなり」
といへば、聞く人々、
「げにげに、いみじき好き者にもものしたまひけるかな。今の人は、さる心ありなむや」
など、感じあへり。
「また、雨の降る日、うちながめたまひて、
あめのしたかわけるほどのなければや着てし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき
〈juppo〉編み物というと昔は連立方程式を駆使してゲージを取り、真面目に取り組んでいた頃もありましたが、年齢を重ねるにつれてただまっすぐ編む物しか作らなくなりました。
今回は世継さんも若い頃を回想しています。若い頃といっても、ここで語っている時点で190歳らしいので、この道真さんの一連の出来事はおよそ40年くらい過去を語っていますがその頃すでに充分じじいだと思われます。
その頃道真さんの境遇を耳にして大いに同情し、学のある人のところに行って道真作の詩や歌を仕入れたというわけです。
ただ学があるだけでなく、不合であることが肝心です。不合は豊かでないさま、餌袋や破子は食べ物を入れる袋や容器です。そういう人に近づいて食事をエサに、いや授業料にして、勉強させてもらったのですね。
聞いている人たちもその姿勢に感心しきりです。「今の人」にはそんな熱心さはない、というのが1000年くらい昔の人たちの感想です。
世継は、老いのせいで「忘れはべり」とかなんとか言っていますが、本心でしょうか。謙遜でしょうか。謙遜に粉飾した自慢に聞こえなくもありません。
世継のリサイタルが続いております。実は道真さんの出番はもうあまりないんです。お話はあとちょっとあります。編み物を始めて夢中になり、更新に影響しないよう気をつけます。
2023年12月04日
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