いよいよ最終回でーす。ちょっとですけど。
〈本文〉
昨日の裏板にもののすすけて、見ゆる所のありければ、はしに上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、この大臣(おとど)、筑紫におはしまして、延喜(えんぎ)三年癸(みづのと)亥(ゐ)二月二十五日にうせたまひしぞかし、御年五十九にて。
〈juppo〉怖いですね〜。まさかこんな後日談が付いていたとは。左遷に関わる陰謀にこれぽっちも関わっていなさそうな、大工の皆さんは無関係に肝を潰すことになってお気の毒としか言いようがありません。
このエピソードはいかにも取ってつけたフィクションの匂いふんぷんではありますが、この後の史実を追うとそんな脚色もしたくなる不幸がどんどん続きます。
道真さんが亡くなった延喜三年は西暦で903年です。その後、
909年 左大臣藤原時平 死亡 39歳
その前年、一味と言われる藤原菅根も死亡
908〜910年 疫病、干ばつが続き、道真の怨霊説が持ち上がる
923年 3月21日 醍醐天皇の息子、保明親王 死亡 21歳
4月20日 天皇が道真に右大臣の位を復任、道真左遷の辞令を破棄。さらに改元。この年、延長元年となる。
925年 保明親王の息子、慶頼王 死亡 5歳
930年 6月雨が降らず雨乞いを行うと、清涼殿の上に暗雲立ち込め雷鳴轟き落雷。大納言藤原清貫が即死および右中弁平希世の顔を焼く。
醍醐天皇は病気になり、9月に朱雀天皇に譲位。10月死亡。
昔はそれほど人の寿命が長くはなかったことでしょうが、道真さん本人が不遇の中59歳まで生きたのに比べると、初回に出てきた時平さんは早死にです。
自然災害まで祟りかというのは非科学的な面もありますが、後ろ暗い思いの方々には自責の念を拭いきれない災難の連続ですね。天皇は自責のあまり道真さんの死去から20年後に、その地位回復を図ったようですが、怨霊道真の怒りは収まらず・・な話題で世間は持ちきりだったんでしょうね〜。
ちなみに、落雷で即死した藤原清貫という人は、在原業平の孫です。
そんな恐い目に遭わせた神様の道真さんですが、前にも書いたように相当な文才・詩才があり、政治にも手腕を発揮した秀才中の秀才だったようです。今では祟り(?)の数々は忘れ去られて、全国の受験生の強い味方です。合格した暁には、是非お礼参りを。
今回の資料としてこちらを図書館で借りて読みました。
「大鏡」の次は漢詩です。多分。できれば年内に。
2023年12月18日
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