日本人は英語が出来ない。学校で10年英語を勉強しても外国人と話せない。世界に伍するグローバルな人材を育成しなければ、と、小学校での英語の教科化やその導入の低年齢化など、が画策されているらしい。
そういうことなのか?私はニュースを聞くたびに思う。勉強しても英語が出来ない大人たちが、何故子供達にますます英語を勉強させようとするのだろう。
日本人はどうして英語が出来ないのか、まずそこの所をよくよく考える必要があるんじゃないだろうか。私は2つの理由があると思う。
ひとつは、私達の母語である日本語が、複雑かつ独特な言語であるということ。
私達の脳は、生まれたときには英語を吸収する能力を持っているのだが、日本語を習得するに従ってその能力を失ってしまう、という話を聞いたことがある。
日本語の習得が、脳にどのような影響を及ぼすのかは知らないが、日本語は実際、難しい言語だと思う。英語の方がずっと簡単だ。私が英語が出来るかどうかは別として。
日本人に生まれてよかったとつくづく思うのは、大人になってから日本語を学ぶ必要がなかった幸運を感じた時だ。なにしろひらがなだけで50音もある。しかも50音全て覚えても何も読めも書けもしない。「いす」とか「とり」なら楽勝だけれど、「きって」でもうアウトだ。「っ」とか「ょ」とか「ぎ」は50音に入っていないのだ。
それからカタカナを覚え、漢字に入る頃には日本を大嫌いになってしまいそうだ。
私達は幼稚園から小学校に通う過程で、そうした積み上げ式の言語習得を実にこつこつこなし、中学生になる頃には誰でも新聞を読めるほどの日本語を身につけている。日本語を学習する外国人にとって、日本語検定1級レベルの日本語は日本人なら高校生くらい、という事実はかなりショックらしい。
日本人の脳は、そういう日本語習得過程を経て、「あー、言葉って難しいわ」「もういいわ、他の言語なんて」などと思っているのではないか。
ま、それは妄想として、日本人自身が、言語習得に食傷してしまっていたり、言語は難しいと思い込んでしまうのではないか、と思うのだ。
だからと言って、私は日本語の方を疎かにしても英語を学ぶべきだとは決して思わない。だから英語教科導入の低年齢化には賛成しない。
言語の学習は難しいものだと日本人が思い込んでいる証拠に、学校で学ぶ英語はとても厳しい。英単語を10回ずつ書かされたりするが、「英語には書き順も部首もないから書いて覚えるのはナンセンス」と、英語話者は実は思っている。それでも書く練習をせずにいられないのは、スペルミスや三単現のsがないだけでテストで減点されるからだ。学校で勉強すればするほど、英語が嫌いになるだけではないのか、とさえ思う。
私は学校の英語が全く出来なかったので、一生英語は使わないで生きていこうと当時考えていたほどだが、大人になって外国に旅行した際、それもアメリカやカナダではなく、マレーシアで現地の人と話した時に、初めて「英語勉強しよう」と思った。同時に「私がこれから英語を身につけるより、外人に私が日本語を教えた方が早いしラクなのでは」とも思ったので、その後私は日本語教師になるに至るのだが、その、日本語教師になるための勉強をしているうちに実感したのは結局「日本語より英語の方が簡単だ」ということだった。だから私が英語が出来るかどうかは別として。
すっかり大人になって英語を勉強し直しながら、外国人と話す機会が増えるにつれて思ったのは、
「英語は出来るか出来ないかではなく、話すか話さないか、だな」ということだ。
どれだけ単語を知っていても、相手に伝える気持ちがなければ何の役にも立たない。反対に、英語なんて大して知らなくても、分かってもらいたい気持ちさえあれば、何かしらは伝わるはずなのだ。
年配の日本人が、オール日本語だけでアメリカ人と会話していたりする。必要なのは言葉そのものではなく意思なのだな、と思う。
私は、日本人は、そういう会話の仕方が得意な民族ではないかと思っている。
日本語はそもそも語彙も表現も豊かで複雑だけれど、日本人はその上で「行間を読む」のが好きだし、得意だ。
最たるものが俳句だろう。俳句は十七文字しか使わずに森羅万象を表現する制約をもちながら、さらに、直接的な表現を嫌う。
俳句だけでなく、日本人が何かを表現する時はいつも、直接言うのは野暮で遠まわしにしたり掛け言葉にしたりするのが粋だ、とされてきた。
それが、私が考える日本人が英語が出来ないもうひとつの理由だ。
日本人は、自己主張が嫌いなのだ。
日本人はNOが言えないとは昔から言われている。私が外国人に日本語を教えるようになってからも、日本人のはっきり言わない性質に対する外国人の不満をよく耳にする。
そういう時、私は外国の方に、
「サムライの時代には、『武士に二言はない』と言って、一度言ったことを後で覆したりしたら、切腹だったんですよ。」というような説明をする。だから、おいそれとはYESもNOも、日本人は言えないのだ、と。
もちろん21世紀の日本人の全てが、そこまでの責任を自分の発言に感じている訳ではないのだが、「はっきり言うのは野暮」に加えて「責任取れるのか?」という恐怖が、日本人のDNAには刷り込まれていて、常に遠まわしに、どちらとも取れるような発言をするように仕向けているのではないか。
SMAPの中居君は、今後日本一の司会者になっていくのだなーと思われている方も多いだろう。私もそう思っている。
多分中居君自身そう思っているというか、そうなりたいというか、彼の中にはトークに対する確立した方法論があるように思われる。
中居君は、よくこういう話し方をする。
「○○だったりだとか、××だったりだとか、変な話、△△じゃないですけども、僕なんかの場合、・・・だったりするのかなって。」
○○や××にお好きな言葉を入れて、文節と文節の間に2、3回「ねぇ、」を挿入してお使いになってみてください。あなたも今すぐ、中居君になれる。
私はこれを、ひそかに「中居文型」と呼んでいるのだけど、ふと気づくと、中居君のみならず、テレビに出てくる若い男子や女子は皆この文型で話しているではないですか。
テレビを見ながら心の中で「いや、それ別に変な話じゃないよ。」とか「△△じゃないですけど、って言っといて△△の話じゃん。」などと突っ込むこと多々、なのだ。
恐らく、中居君が確立した方法論の一つに、こういった当たり障りのない、肯定でも否定でもないような、それでいて言いたいことは伝わる表現を選ぶ項目があるんだろう。
それは日本人皆が好む表現なのだ。そのつもりがなくても、相手の気に障る言い方を避け、無難に会話しようしようとするあまり、どんどん回りくどい言い方になっていく。
「座ってください」と言えばいいだけなのに、「座ってもらってもいいですか」なんて言い方になる。
日本人は行間を読む。相手の顔色を読む。空気まで読まなければ日本人としてやっていけない。そんな日本人が英語を話そうと思っても、何から話し始めて何と言って言葉を切ったら良いか分からないのも無理はない。
だから日本人は英語が出来ない、と私は思う。
それのどこがいけないのだ、とも思う。
日本人が世界に向けてアピールすべきは、英語力ではなく、日本人としてのアイデンティティーと誇りではないのか、と。
「日本人ですから日本語を話します。英語は話しません。日本人と話したかったら日本語を学んでください。空気も読めるようにしておくこと。」くらい堂々としていたらいい。
英語が必要なら通訳を通せば良いことだし、これからの時代には同時通訳機の技術ももっと進むだろうし。
世界から見た日本人像も、
「日本人は最後の最後までNOと言わないが、一度NOと言ったらそれは100%、絶対のNOだ。」というのがグローバルスタンダードになるように、態度を固めていけばよい。
大事なのは日本人として、胸を張って外国人と対することだ。その自信はどこから得るか。英語だけではないと思う。
あっ、もうひとつあった。日本人が英語が出来ない3つ目の理由。
日本語と英語の発音は周波数が違うので、日本人の耳にはどうしても聞こえない英語の発音があるのだという。どれだけ勉強してもLとRが聞き分けられないのには、ヘルツに原因があるらしいのだ。
それならば。
誰か日本人にも英語の音が聞き取れる、英語耳補聴器を作ってくれませんか。イヤホンみたいなものでも、携帯アプリでも。もう誰か作ってますか?出来ているなら配布しましょうよ。
技術に頼ればいいというものでもないかもしれないけど、学習指導要領で試行錯誤するくらいなら、そういうところに財を投じてもよいのでは。
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