2017年06月09日

亀山殿の御池に

ああっ、1ヶ月以上もご無沙汰してしまいました。リクエストにお応えします。「徒然草」五十一段です!
〈本文〉
 亀山殿の御池に、大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車(みづくるま)を造らせられけり。多くの銭(あし)を給ひて、数日(すじつ)に営み出出して、掛けたりけるに、おほかためぐらざりければ、とかく直しけれども、つひにまはらで、いたづらに立てりけり。さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうにめぐりて、水をくみ入るること、めでたかりけり。よろづにその道を知れる者は、やんごとなきものなり。
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〈juppo〉前回、与一くんの最終回を描いてからすぐのころ、もうすぐゴールデンウィークだなという時期に、私は突如として深刻なSMAP不足に陥りました。それからずっと、SMAPを見続ける日々です。ブログの更新はこの間したばかりだと思っていたら、そんなわけでSMAPを見てる間に5月がする〜っと終わってしまっていました。すみません。いつまで連休気分なのかと。
録画してあった番組とか、DVDとか、見てます。ずーっと。

 久しぶりの「徒然草」です。この「亀山殿の御池に」は、ブログを始めるよりも前に、塾で授業のために落書き程度に描いた作品の中のひとつでした。ブログを始めた当初は、それら落書き作品を順に描き直してupしてたので、これも早いうちに記事になるはずだったと思うのですが、10年も放置してしまいました。
 今回ちゃんと描いてみて、なぜそんなに手をつけないでいたかの理由がわかりました。主役が水車だから。それだけです。

 亀山殿とは、後嵯峨上皇と亀山上皇の別荘のことだそうです。
 
 えーと、後は特に説明することはないですね。そのままのお話ですよね。宇治の里人>大井の土民という内容になっているのは、読む人によっては引っかかるところでしょうか。宇治の里が水車造りで有名だったとか、そんな地域性があったのでしょうか。そんなことでもなければ、出身がどうより、その道に明るいかどうか、ということが重要なんですよね。最初から腕のある人を呼んでおけば良かった、て話ですね。

 大金を投じて動かないものを造ってどうするんだ!という点に注目するなら、豊洲とか五輪会場とか、タイムリーな話題に繋げられないこともないですね。
posted by juppo at 03:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月11日

家居(いへゐ)のつきづきしく@

ご無沙汰してしまいました。だいぶお待たせしているリクエストのうちの一つです。『徒然草』10段です。
〈本文〉
家居(いへゐ)のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、ひときはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきららかならねど、木だちものふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(すのこ)、透垣(すいがい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
 おほくの工(たくみ)の心をつくしてみがきたて、唐(から)の、大和(やまと)の、めづらしく、えならぬ調度どもならべおき、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目もくるしく、いとわびし。さてもやは、ながらへ住むべき。また、時の間(ま)の煙(けぶり)ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
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〈juppo〉梅雨入りしたとたんに雨がずーっと降っていますね。そして気がつくともうすぐ期末テストですね。

 徒然草です。相変わらず兼好さんがぼやいています。今回は人の住まいというものについてぼやいているようです。どんな家が良くてどんなのが良くないか、と言っているのですが、この章の、前半は良いもの、後半は悪いもの、という構成になっています。
 ぼーっと読んでいると、「おほくの工の・・・」からいろいろ書き連ねているものが、「良い」と思って書いているように錯覚するんですけど、兼好さん的にはそれらは「ダメ」なものたちなんですね。
 かいつまんで言えば、古いもの、自然なままであるものが「良い」。新しくていじってあるのは「悪い」ということのようです。

 兼好さんのように年をとってみると、家など生きている間だけの仮の住まいなのだから、凝ってみてもしょうがないよ、と思えるのには同感なのですけど、それでも住んでいる人柄がわかるような「こだわり」を兼好さんは欲しているようで、そのへんはやはり趣味の人だなー、と思いました。

 この段は続きがあるので、とりあえず@にしてありますが、Aはすぐに描きません。
 他のリクエストに先にお応えしてから、いずれ続きを描きたいと思っています。中途半端で失礼いたします。
posted by juppo at 04:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月31日

何事も、古き世のみぞしたはしき

 皆さん、明けましておめでとうございます!・・と、言おうと思ったらもう1月も終わりです。ご無沙汰してすみませんでした。
 『徒然草』第二十二段です。リクエストにお応えしています。それから、後ほど重大発表があります!
〈本文〉
 何事も、古き世のみぞ慕(した)はしき。今様(いまやう)は、無下(むげ)にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠(たくみ)の造れる、うつくしき器物(うつはもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
 文(ふみ)の詞(ことば)などぞ、昔の反古(ほうご)どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。『古(いにしへ)は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数(とものれうのにんじゅ)立て」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ*、最勝講(さいしょうかう)の御聴聞所(みちやうもんじょ)なるをば「御講(ごかう)の廬(ろ)」とこそ言ふを、「講廬(かうろ)」と言ふ。口をし』とぞ、古き人は仰せられし。
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〈juppo〉昔は良かった、今時の若い連中と来たら・・という話です。『徒然草』にはよくこの手の話が出てくるような気がします。結局、兼好法師もジジィなんだなと思わざるを得ませんが、昔に比べて今はいろいろと残念だと思う気持ちは、いつの時代も変わらないということですね。「今様の人は」と言っていますが、今と言っても何百年も前なんですからねー。

 反古(ほご)という言葉は、今でも「反古にする」なんて使い方で残ってると思いますが、ここでは失敗して捨てた手紙を指しています。これも未だに使う言い方だと思いましたが、よりわかりやすく「ボツ」にしてあります。
 失敗作でも昔の手紙の方が、今時の手紙より優れた言葉が綴られていると言ってるのですね。
 「車もたげよ」、「火かゝげよ」の部分はわかりやすい言葉に置き換えて訳しましたが、それぞれ「牛車に牛をつけること」「灯火の灯心をかき立てること」を言ってるのだそうです。
 「主殿寮」は昔の役所の名前で、そこの役人の仕事の一つに灯燭に灯をともすのがあったそうです。
 「最勝講」は宮中で行われていた法会のことだそうです。 偉いお坊さんの話を天皇が聴講した場所を、「御講の廬」と言ったのに、略して「講廬」などと言う者がいる、と年寄りが嘆いている訳です。

 こういう話を読むと、乗っかって「最近の気になる言葉」を羅列したくなるところですが、冒頭で申し上げました通り重大発表があるので今回は羅列しません。


 なんと、このブログのサービス提供先LOVELOGが、終了するそうなんです!
 
 ブログ更新・編集は3月で、閲覧は6月でそれぞれ終了するそうです。

 こんなことなら、2年前KDDIに見切りをつけた時に、さっさと引っ越してしまえば良かった・・と頭を抱えています。

 2年前、軽くブログの引っ越しをしかけたんですけど、完全移行せず、めんどくさくなって新居は今、閉鎖しています。

 でも、こうなったらその時引っ越しかけた新居に、完全転居することにします。
 ですからブログ自体は、閉鎖しません。

 3月まではこのまま、ここで更新を続けますのでどうぞおつきあいください。
 追々引っ越し先を大々的に告知しますので、よろしければそちらの方にもお出かけくださいますように。

posted by juppo at 23:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月01日

牛を売る者ありA

後編です。
<本文>
皆(みな)人あざけりて、「そのことわりは牛の主に限るべからず。」と言ふ。
 またいはく、「されば、人、死を憎まば、生(しやう)を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、あやふく他の財をむさぼるには、志満つことなし。生ける間、生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、このことわりあるべからず。人みな生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり。もしまた、生死(しやうじ)の相(さう)にあづからずと言はば、まことのことわりを得たりと言ふべし。」と言ふに、人、いよいよあざける。
ushi2.jpg1ヶ月もサボっていたのに、連休に入った途端連日更新とは、よほどすることがないのだな、と思われてしまいそうですが、その通りです。
 私はがっつり大型連休の予定なので、どこかに出かけようかな〜と思っていたんですけど、ここ最近事故のニュースが多くて、遠出する気持がちょっと萎えてしまいました。
 お出かけの予定がある方は、事故にはくれぐれも気をつけてください。

 家にいたって何があるかわからないんですけどね。
図らずも、今回の作品で兼好法師が言っているのもそういうことのようです。

生死についての話をしているのが兼好さんだとは本文には書かれていないのですが、兼好さんの主張と考えて良いようなので、漫画ではそれらしく描きました。

人間も牛もいつ死ぬかわからないんだから、今ある命に感謝して、その喜びを堪能しましょうよ、て話です。

 実際にテレビで悲惨な事故の映像を見たりすると、それでなくても昨年の震災以来、今日の生が明日もあるとは何の保障もないのだということを意識するようになった方も多いと思います。

 この世に生まれた偶然、今日まで生きている幸運、それだけで凄いことなのだなぁ、と思えたら、日常の些細な不平不満も解消できるかもしれません。

 恐らく「まことのことわり」を得るのはそうたやすいことではないのでしょうけど、少しでもそこに近づけるように、日々の喜びを楽しみましょう、皆さん。

 

posted by juppo at 03:44| Comment(5) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月30日

牛を売る者あり@

こっそりリクエストにお応えします。『徒然草』、第九十三段です。
<本文>
「牛を売る者あり。買ふ人、『明日そのあたひをやりて、牛を取らん。』と言ふ。夜の間に、牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり。」と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者のいはく、「牛の主、まことに損ありと言へども、また大きなる利あり。その故は生(しやう)あるもの、死の近きことを知らざること、牛、すでにしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存(ぞん)ぜり。一日の命、万金(まんきん)よりも重し。牛のあたひ、鵞毛(がまう)よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず。」と言ふに、
ushi1.jpg皆さん、ご無沙汰しておりました。新学期が始まったのにブログを放置してしまっていました。今回は、過日リクエストを頂いたのにすぐにはお応えできなかったのでそのままスルーしていたものです。他にもそういうスルー作品があるんですけど、いずれお応えできればと思っています。

 牛の代金を払う前に、商品の牛が死んでしまったという冒頭から「これは法律の問題ではっ!?」なんて思わされますね。牛が死んでも買った人は代金を払う義務があるのかどうかと。上沼恵美子相談員なら億万長者だから「払う」と答えるかな、なんて。

 ところがそういう問題ではないんですね。命の問題なのです。牛で儲けようが儲けなかろうが、命があるだけで万金に値する価値がある、ということです。「生きてるだけで丸儲け」な話です。
 そりゃそうなんだけど、なかなかすんなり理解しずらい話ではあります。後半はそういう展開になります。
 続きは必ず、連休中に。


 ブログをなかなか更新しない間に一体何をしていたのかというと、実は私は着々とブログの引越し作業をしていました。引っ越します。
 コメント等でアドバイスを頂いて、試行錯誤を重ねた結果、LOVELOGに対応している丸ごと引越しサービスが見つからず、結局「インポート/エクスポート」機能を使って地道に少しずつ運んでいます。今年は塾の引越しに始まって、こんなことの繰り返しだなぁ。
 そういう訳で、引越し先は以下なんですけど、今はまだ工事中で全然ポンコツです。

 完全に引越しできたら、改めてここでお知らせします。また、それまでは記事の更新はこちらで行います。

 引越し先は、exciteブログ↓
http://kokokobun.exblog.jp/

posted by juppo at 02:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

悲田院の堯蓮上人は

リクエストをいただいたものです。『徒然草』です。
〈本文〉
 悲田院(ひでんいん)の堯蓮上人(げうれんしゃうにん)は、俗姓(ぞくしゃう)は三浦のなにがしとかや、さうなき武者なり。故郷(ふるさと)の人の来たりて物語すとて、「吾妻人(あづまうど)こそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、ことうけのみよくて、まことなし。」と言ひしを、聖(ひじり)、「それはさこそおぼすらめども、おのれは都に久しく住みてなれて見はべるに、人の心劣(おと)れりとは思ひはべらず。なべて心やはらかに、情(なさけ)あるゆえに、人の言ふほどのこと、けやけく否(いな)びがたくてよろづえ言ひ放たず、心弱くことうけしつ。いつはりせんとは思はねど、ともしくかなはぬ人のみあれば、おのづから、本意(ほい)通らぬこと多かるべし。吾妻人は、わがかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、ひとへにすくよかなるものなれば、始めより否(いな)と言ひてやみぬ。にぎはひ豊かなれば、人には頼まるるぞかし。」とことわられはべりしこそ、この聖、声うちゆがみ、あらあらしくて、聖教(しゃうげう)のこまやかなることわり、いとわきまへずもやと思ひしに、この一言(ひとこと)の後、心にくくなりて、多かる中に寺をも住持せらるるは、かくやはらぎたる所ありて、その益(やく)もあるにこそと覚えはべりし。

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〈juppo〉この冬初めてのまとまった雪が降りました。寒いです。
 この作品はなんと去年の夏にリクエストいただいたもので、今まで放置していた罪悪に身も震える思いです。本当に申し訳ありません。


 長い本文を1ページにまとめてしまったのでご覧の通り字だらけですが、要するに、「都会の人は冷たい。田舎の人は親切。」と言った人に、「そんなことはない。」と否定し、その理由を分かりやすく説明してくれた偉いお坊さんの話です。

 田舎の人と都会の人とを比べて、心自体が違うということはない、置かれた状況が違うから付き合い方にも差が出るのだ、という解説はなるほどと思いますよね。


 「東京の人は冷たい」というのも良く聞く話ですけど、東京人のほとんどは、田舎から出て来ている人ですからねー。

 「東京は雪に弱い」とも言いますが、これは本当です。ほんの5��積もっただけで大打撃です。東京の人は雪が降ると必ず滑る靴を日ごろ履いているのだなーと、雪が降ってから学習します。商店街のオシャレなタイルも、積雪時のことなどこれっぽっちも考えずに敷いてあるのです。


 そんな訳で雪景色の連休、皆さんいかがお過ごしですか。寒の戻りで風邪などひかれませんよう、ご自愛ください。
posted by juppo at 15:53| Comment(6) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月22日

いでや、この世にC

続きです!
〈本文〉
 ありたき事は、まことしき文(ふみ)の道、作文(さくもん)、和歌、管弦(くわんげん)の道、また有職(いうそく)に公事(くじ)の方(かた)、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙(つたな)からず走りがき、声をかしくて拍子(はうし)とり、いたましうするものから、下戸(げこ)ならぬこそをのこはよけれ。

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〈juppo〉寒いですね〜。我が家ではこたつを出しました。これで平年並みの気温だそうですが、今年は暑さが厳しかった分、寒さが余計に堪えますね。皆さん、風邪などひかないよう注意してください。


 さて、『いでや、この世に』は今回で終了です。
 この世に生まれて来たからには、こーなりたい、あーなりたい、という希望を並べた段だった訳ですが、締めは酒の飲み方というところが兼好さんの人柄なんでしょうか。

 今回だって出だしは学問とか文化的な素養を並べているのに、急に最後に来て、飲む席では多少飲めた方がいいよ、てなご意見ですね。

 「下戸」という言葉を口語訳では「酒が飲めない」と訳していることもあるようですが、今でも「下戸」って言うよね?と思って漫画ではそのまま使いました。

 下戸の反対は上戸(じょうご)と言って、「笑い上戸」「泣き上戸」などもそこから来ています。

 要するに、お酒をたくさん飲む人を「上戸」、飲めない人を「下戸」というのです。

 結局説明してしまいました。


 「をのこはよけれ」と言っているのは、わざわざ「男」限定で述べているようで、「女は飲まない方がいいけどね」という意味を含んでいるそうです。
 現代では差別発言に取られかねません。


 私も多少お酒は飲みますが、酒の席というものにはめっきり参加しなくなりました。
 車で移動することが多くなって、家でもめったに飲みません。
  
 飲むのは嫌いじゃないんですけど、酔っ払いは嫌いです。隣の席に割って入って「飲んでないじゃん〜」などと勧めて来るようなのは特に。

posted by juppo at 22:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月04日

いでや、この世にB

なかなか続けて更新できませんが・・・頑張ってます!
〈本文〉
 人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎょう)ありて、言葉おほからぬこそ、飽かず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、こころ劣りせらるる本性(ほんしゃう)見えんこそ口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も才(ざえ)なくなりぬれば、しなくだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけず、けおさるるこそ、本意(ほい)なきわざなれ。
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〈juppo〉急に寒くなりましたね。皆さんお変わりありませんか。

 私は何だか忙しいんです。ここ最近、仕事がマトモにあるんです。そういう訳で、また久々の更新になってしまいました。



 一言でいってしまうと、「誰でも美男美女になりたいけど、結局中身だよ!」という話ですよね。

 この当時は見た目や家柄は、もう生まれた時の条件で一生を生きることになるので、外見は変えられないけど、中身はいくらでも向上できるでしょ、ってところもポイントです。


 現代では、見た目でも地位でも、やる気次第で変えることは可能ですからね。
 心をさておいても、外側から良くして行こう、と思うのも人情ですが、やっぱり中身を良くすることには勝らない、と私も思います。外側には中身が滲み出るものでもありますし。


 と、いうようなことを言い訳に、外見に全く構わなくなったお年頃の私です。
 構わなすぎもちょっとマズいな、と感じ始めたので、晴れてる日だけUVケアとか薄化粧とかするようになりました。
 つまり、曇り・雨の日はすっぴんです。晴れててももう秋だからいいか、くらいの適当さです。
posted by juppo at 21:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

いでや、この世にA

大変ご無沙汰をいたしました。ぼちぼち、再開します。
〈本文〉
 法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。「人には木の端(はし)のやうに思はるるよ。」と、清少納言が書けるも、げにさることぞかし。いきほひまうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀(そうが)ひじりの言ひけんやうに、名聞(みゃうもん)くるしく、仏の御(み)をしへに違(たが)ふらんとぞおぼゆる。
ひたふるの世すて人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

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〈juppo〉今年の夏は本当〜に暑かったですね。たくさんの方にご心配をかけてしまいましたが、私は元気です。いろいろありましたが、すべきことをしようと思います。

 さて、中途半端に�,世栄舛い拭悗い任筺△海寮い法戮梁海C任后�その�,量_茲涼罎如峺遽辧廚了「�間違っていて、それも直さないとな〜と、ずっと気になっていましたが、さっき直しました!

 兼好法師、いきなりの自虐ネタです。お坊さんというのは世間から浮いた存在であるところに有難みがあるのに、世間でもてはやされてどうする、というような自戒を込めた兼好さんのメッセージかと思います。

 増賀ひじりという方は、名誉や利益を捨てた、天台宗の偉いお坊さんだそうです。

 こんなところで清少納言さんにお会いするとは思っていませんでしたね。「法師になったら人から木の端みたいに思われる」というのは『枕草子』にある一節のようです。いずれ描くかも知れません。


 そういう訳で復活しました。今後もなるべく、ブログは更新して行きたいと思っています。そうちょくちょくとは行かないかもしれませんが、今までもそうだったので、皆さまも以前のように暖かい心でおつき合いください。

 これからもよろしくお願いします!
posted by juppo at 22:54| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月05日

いでや、この世に@

いろいろと、お詫びすることがあります。『徒然草』第一段です。
〈本文〉
 いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事おそ多かめれ。御門(みかど)の御位はいともかしこし。竹の園生(そのふ)の末葉(すえば)まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一(いち)の人の御有様はさらなり、ただ人(びと)も、舎人(とねり)などたまはるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・孫(うまご)までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下(しも)つ方は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。
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〈juppo〉皆さま、大変ご無沙汰してしまいました。お詫びは後ほど。

 リクエストをいただいた作品です。『徒然草』第一段です。『徒然草』といえば、「つれづれなるままに、日暮らし・・・」で始まるのはあまりにも有名ですが、そこは「序段」になるんですね。


 願いごとの第一位はいい身分だというのは時代を感じますよね。今はそれほどのランクにならないのではないかと思いますが、いかがでしょう。
 帝の血筋は「人間の種ならぬ」と言っております。『古事記』によれば天皇の祖先は神様ですからね。我々と同列には語れないのですね。皇室の方々の似顔絵も恐れ多くて描けないんですよ。



さて、ここからお詫びです。

 実は、今年の夏も父が入院しています。
 父は去年のちょうど今日、内臓を摘出する大手術を受け、成功して無事に退院したのですが、一年も経たないうちにガンが再発しました。

 今年の方が母と私にとって辛い父の入院になってしまいました。まだ父の闘病は続いているんですけど。


 今回の作品はリクエストをいただいたもので、深刻な状況になる前に描いておけば良かったのに、そういうことになってなかなか時間が取れなくなってしまいました。

 今回の原稿はほとんど病院で描きました。PCは塾にあるので、今は塾にいます。この記事を更新したらまた病院に行きます。

 病院で付き添っていても、私にできることはさほどないので、なるべく時間を見つけてこうしてブログは続けたいと思っています。
 それでも、せっかくリクエストをいただいたのにお応えするのにこんなに時間がかかってしまっていること、高校生の皆さんの夏休みの学習のお手伝いが今年はあまり出来ないことを、心からお詫びいたします。ごめんなさい!
posted by juppo at 11:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月20日

能をつかんとする人

もうひとつリクエストから。『徒然草』第百五十段です。
〈本文〉
 能(のう)をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひ人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさしいでたらんこそ、いと心にくからめ。」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得(う)ることなし。いまだ堅固(けんご)かたほなるより、上手(じやうず)の中に交じりて、そしり笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎてたしなむ人、天性(てんせい)その骨(こつ)なけれども、道になづまず、みだりにせずして年を送れば、堪能(かんのう)のたしなまざるよりは、つひに上手の位(くらい)に至り、徳たけ、人に許されて、並びなき名を得ることなり。
 天下のものの上手といへども、初めは不堪(ふかん)の聞こえもあり、むげの瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟(おきて)正しく、これを重くして放埒(はうらつ)せざれば、世の博士(はかせ)にて、万人(ばんにん)の師となること、諸道変はるべからず。

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〈juppo〉「能をつかん」の能とは、才能ではなく芸のことだったんですね。

 「上手くなってから人前でやろう」と言っている人は結局芸を身につけられないというのは、今密かに何かの練習をしている人にとっては衝撃のアドバイスですね。

 私は結構言いたがりなので、「最近○○始めました」とか「○○にハマっています」なんてすぐ人に言ってしまうんですけど、それで身を立てようと思うほどのことじゃないから簡単に言えるのかも知れません。



 そういえばテスト前に「全然勉強してない〜」と言う人の方が良い点を取る、というのは大昔からあるテスト勉強の定義みたいなものだと思いますが、今でもそうですか?
posted by juppo at 21:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月19日

羅(うすもの)の表紙は

リクエストにお応えします。『徒然草』、第八十二段です。
〈本文〉
「羅(うすもの)の表紙は、とく損ずるがわびしき。」と人のいひしに、頓阿(とんあ)が、「羅は上下(かみしも)はつれ、螺鈿(らでん)の軸(ぢく)は貝落ちてのちこそいみじけれ。」と申しはべりしこそ、心まさりて覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都(こうゆうそうづ)が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなきもののする事なり。不具なるこそよけれ。」と言ひしも、いみじく覚えしなり。
「すべて、何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏(だいり)造らるるにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり。」と、ある人申しはべりしなり。先賢のつくれる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたる事のみこそはべれ。

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〈juppo〉そうそう、書き忘れていましたが、前回の『文字一つ返し』を描くのにも図書館で『十訓抄』を借りて来たんですよ。教科書や参考書ではちらちら見るのに、『十訓抄』って意外にマイナーな古典のようで、図書館で検索した挙げ句、雲の上くらい高い棚にあるらしかったので、職員の人を梯子に登らせて借りて来ました。

 『徒然草』はその点、手元にいくらでも訳があるので助かります。

 今回は鎌倉時代の出版業界の話ですね。「羅」は薄手の絹織物のことで、当時は本の表紙にそれを使っていたんでしょう。多分高級で多分繊細な布地なので、「読んでるうちにボロボロになっちゃうよ!」というようなモノだったんですね。

 ところが見る人が見れば、「そういうところがいい」と。書物は本来、人の手に触れて読まれることが前提のものですからね。
 でもBOOK OFFでは高く売れないでしょうね。

 何巻も続く本が各巻バラバラの装丁になっている、というのも現代では考えられないことですが、当時は大手出版社とか著作権なんてなかったのですから無理もないですね。

 集めて読んでいる人にとっては見苦しいことこの上なかったでしょうけれど、これまた見る人が見れば「それがいい」と。

 頓阿という人は歌人で、弘融僧都は「法顕三蔵の、天竺に渡りて」という段にも登場した『徒然草』の準レギュラーですが、後半に登場する「ある人」は誰だか分かってないらしいです。

 その「ある人」の言う「生き延ぶるわざ」とは、やり残した仕事を見た人が「生き延びた心地がする」という解釈と、やり残された仕事自体が「生き延びている」という解釈と、二つの説があるようです。

 何でも、やりかけのことはまだ手を入れる余地がある訳ですし、それをする人も、やらなければならない義務がまだ残されているうちは人生を終える訳にはいかない、という考え方ができますよね。
 私には二説とも正解なんじゃないかな、と思えました。

 そういう意味で、何でもやりかけにしてしまうのが得意な私です。中途半端なだけに見えるかも知れませんが、長く生きる秘訣なんですよ、とこれからは堂々と言おう。


 それにしても暑いですね。毎日雨が降るのに毎日30度くらいになるのはどういうことなんでしょうか。
posted by juppo at 20:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

寺院の号

徒然草、第百十六段です。
〈本文〉
 寺院の号(な)、さらぬ万(よろづ)の物にも、名をつくること、昔の人は、少しも求めず、ただありのままに、やすくつけけるなり。この頃は、ふかく案じ、才覚をあらはさむとしたるやうに聞こゆる、いとむつかし。人の名も、めなれぬ文字をつかむとする、益(やく)なきことなり。
 何事も、めづらしきことをもとめ異説を好むは、浅才の人の必ずあることなりとぞ。

jiin.jpg〈juppo〉今回のお話はあまり教科書には載っていないかも知れません。実は2ちゃんねるで拾って来たネタです。


 今日見たニュースによると、2009年度赤ちゃんの名前ランキング(たまひよ調べ)第1位に輝いたのは、

 男の子 大翔(ひろと)
 女の子 凛(りん)

だそうです。

 ランキング一覧を見ると、私の世代では「なんて読むの?」と聞かれかねなかったような独特の読み方をする漢字の名前が並んでいるんですけど、読んでいるうちに傾向というか、流行りというか、だいたい似たパターンになっていることが分かります。

 この子たちが漢字を書けるようになるころには、それぞれの読み方が定着して、結構みんなありふれた名前になっているのかも知れないな、と思いました。


 それでも時々、「どうしてこんな名前にしたんだろう」とか「どうしてこの漢字を選んだんだろう」と首を傾げたくなる名前に遭遇することがあって(大抵ニュースで見るんですけど)、私には子どもの名前をつけた経験なんてないので偉そうなことは言えませんが、名前はやっぱり読みやすくて覚えやすいものの方がいいんじゃないかな、と思っていました。


 そういうことを、およそ七百年前に兼好さんも憂いていたのです。

 そんな昔から奇をてらった名前をつけたり、難解な漢字を使う人がいて、その傾向を「そんなことは才覚のある人のすることではない」と断言しているのが、快哉、でもあり面白くもあり、で今回この作品を紹介することにした訳です。



 実は私は5月に生まれる予定で、もし5月中に生まれていたら「さつき」という名前になる予定だったそうです。

 予定がずれ込んで6月に生まれたので、英語で6月はJuneだから、という理由で「純子」になったんです。
 そんなインテリなことをうちの両親がなぜ考え付いたのか不思議ですが、この命名理由は外国人にも理解されやすくて重宝しています。



 ところで、私には新体操をやっている大学生の姪がいます。
 その姪が明日の夜、TBSの『ホリさまぁ〜ず』という深夜番組に出演するそうです。

 12/8(火)25:05〜の放送です。さまぁ〜ずが大学に来て一緒に(?)新体操やったらしいです。
 興味のある方、毎週見てる、という方は是非ご覧ください。



 ちなみに姪は「柴田さん」じゃありません。
 長田侑里乃(おさだ ゆりの)といいます。どうぞよろしく。
posted by juppo at 20:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月22日

九月二十日のころ

リクエストにお応えします。徒然草、第三十二段です。
〈本文〉
 九月(ながつき)二十日のころ、ある人にさそはれたてまつりて、明くるまで月見ありくことはべりしに、おぼし出づる所ありて、案内させて入りたまひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひしめやかにうちかをりて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。よきほどにて出でたまひぬれど、なほ事ざまの優におぼえて、物のかくれより、しばし見いたるに、妻戸をいま少しおしあけて月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口惜しからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうのことは、ただ朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞きはべりし。

9/20.jpg〈juppo〉期末テストが近い方も多いと思いますが、寒いですねぇ。今年は新型インフルエンザの影響で、授業数が足りなかったり、テストの日程がずれ込んだり、中には羅患して生死の境をさまよった方もいるかと思うと、学生の皆さんにはさんざんな年になってしまいましたよね。

 でも期末が終われば冬休みですからね!!あともう少し、頑張ってください。


 今回は『徒然草』です。さらっと読めそうでいて、一読しただけでは何がなんだか分からない話ですよね。

 とにかく、古文にはありがちなんですけど主語がないので、「誰が、どうして、何を」しているのか、現代人にはさっぱり分からない文章になっているんですよ。


 マンガを見ていただくと何となく分かるかと思いますが、実はこれは恋の話なんですね。

 兼好さんを月見に誘った「ある人」が、ふと思い出した所というのは愛人宅で、彼氏は短い逢瀬を楽しんでテキトーに帰って行くのですが、その後で兼好さんがストーカーすれすれに物陰から彼女の行動をチェックしている、という場面なんです。
 一緒に愛人宅に来てる時点から「兼好さん、お邪魔じゃないのか?」なんて余計なことが気になってしまいます。


 「妻戸」というのは両開きの戸のことで、神殿造りの家屋に付けられていたそうです。

 帰って行く客をいつまでも見送る彼女の行動が、「そういう人もいる」と自分で知っていてする行動とは思えない、意識していないから出来ることなのだ、と兼好さんは感心してるんですね。



 まったく個人的な感想なんですけど、その、兼好さんがしみじみ感動した彼女の行動というのは、彼女がことさら風流だったからというより、「恋しているから」だと思いませんか?

 実際風流な女性だったのかも知れませんよ。でも、好きな人がいて、せっかく会えたのにすぐ帰ってしまったら、その人を見送っていつまでも外を見ているなんて、恋する女性なら自然に取る行動ではないでしょうか。

 女心は男が思うほどデジタルじゃないんですよ。その人の残像を目で追ったり、かかって来ない電話をじっと見つめちゃったり、なんて誰にでも経験のあることだと思います。

 そして彼の姿がもう見えなくなって、空には月があるばかり、だったら当然、月を見ますよね。


 そういう女性の態度が兼好さんの風流魂をゆさぶった作品なのでしょうが、描きながら私は「女心が分かってないな、兼好さん。」なんて思ってしまいました。

 
posted by juppo at 20:43| Comment(6) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月30日

仁和寺にある法師

リクエストにお応えしまーす。徒然草、第五十二段です。
〈本文〉
 仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石清水(いはしみづ)を拝まざりければ、心うくおぼえて、ある時思ひたちて、ただひとり、かちより詣(まう)でけり。極楽寺(ごくらくじ)・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、たふとくこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしきことなり。

ninnaji.jpg
〈juppo〉もうすっかり秋ですね。皆さんお元気ですか。
 10月は中間テストが始まったな、と思った途端に毎週誰かが中間テスト中で、対策授業に忙殺されていました。
 「二酸化炭素1モルの質量は44グラムで、標準状態での体積は22.4リットルで・・・」なんてことに情熱を注いでいました。


 『徒然草』はひとつひとつのエピソードがさくっと短くていいですね。
 そして今回のようにオチのある話が多いです。そのオチの意味が分からないよ、ということを除けば読みやすい作品です。

 極楽寺、高良神社は、石清水八幡宮の末社(まつしゃ)だそうです。末社とは本社に付属している神社のことだそうです。


 石清水八幡宮に参詣に行くのが目的だったのに、それ自体が山の上にあることを知らず、末社だけ見て「全部見た」と思い込んで帰って来てしまった坊さんの、マヌケさが笑いどころなんですね。
 
 これを読んですぐに「目的を果たしてないよー、坊さん。」と反応出来るためには、出て来る神社を、立地までよく知っていることが要求される訳ですが、兼好さんが書いた時の読者にとっては常識だったんでしょうね。
 今でも地元の皆さんには常識なんでしょうか。私にはさっぱりです。解説を読まなければ、「それのどこが面白いの?」と笑ってる人に聞いて回ることになってしまいそうです。

 誰にでもできそうな簡単なことでも、もっとよく知っている人がいるなら教えを乞うた方がいいよ、という教訓になっている話でした。
 新製品を購入したら、面倒でもやっぱり取説は読んだ方がいいよ、ということですね。


 やっと中間テストシーズンも終わりだな、と思ったのもつかの間、来月はもう期末テストをやる学校もあるんですね。2学期って忙しいですよね。

 そんな中、忙中閑あり、で今週、やっと、『BALLAD 名もなき恋のうた』を見て来ました。
 ・・まだ見てなかったんですよ。クサナギ君ファンなのに。
 そして、多分クサナギ君の映画でなければ見ないな、という程度の興味で見に行ったんですけど、思いのほかイイ映画でした。面白いです。しんちゃんありがとう、って感じです。
 皆さんも1度は見た方がいいですよ。2度も3度も 見なくてもいいですから。
posted by juppo at 20:56| Comment(15) | TrackBack(1) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月25日

丹波に、出雲といふ所ありA

後編をお届けします。
〈本文〉
おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官(じんくわん)を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、さだめて習ひあることにはべらん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ。さがなき童(わらは)べどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、すえ直して往(い)にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

tanba2.jpg〈juppo〉このブログには珍しく、立て続けに更新しています。残りはちょっとだけだったので。


 普通とは違う、背中合わせに立てられた狛犬の秘密とは、子どものいたずらだったのですね〜。そりゃー上人の涙も無駄泣きでしたよね〜。

 いったいどんな深い訳があるのだろうと期待していると、意外につまらない理由だった、ということと、なんでもありがたがって持ち上げるのはバカみたいだ、という部分に笑いどころがある訳なんですが、そんなことよりもまず、狛犬ってそんなに簡単に動かせるの?という感想を抱きませんか?

 ・・昔のことですからね。狛犬の像も今より簡素な造りで、軽かったのかも知れません。
 今でもそんなに軽かったら、動かせるどころか、持ち帰るヤカラが続出するでしょうね。


 皆さんも、公共物へのいたずらはくれぐれもお控えくださいね。勘違いしてありがたがって感涙にむせぶ人が出て来るかも知れませんからね。

 

 自動販売機の商品見本は、今でこそ本物を並べている訳じゃないことが一目瞭然になっていますが、昔、タバコの販売機の見本部分のガラスが壊されて、見本が全て持ち去られているのを見たことがあります。次に通った時、その販売機の見本には紙に字で銘柄を書いたものを並べてありましたが、名前が並んでいても、何がどの銘柄か一見さっぱり分からないものだな、と思ったものです。果たして、持ち去られた見本は本物のタバコだったのか、は知る由もありません。公共物は大切にしましょう。
posted by juppo at 23:37| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月24日

丹波に、出雲といふ所あり@

徒然草、第二百三十六段です。
〈本文〉
 丹波に出雲といふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかや知る所なれば、秋のころ、聖海上人(しゃうかいしゃうにん)、そのほかも人あまた誘ひて、「いざ、たまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させむ。」とて、具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。御前なる獅子(しし)・狛犬(こまいぬ)、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深きゆえあらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝(しゅしゃう)のことは御覧じとがめずや。むげなり。」と言へば、

tanba1.jpg〈juppo〉人間国宝・桂米朝師匠が、その著書『落語と私』の中で、「徒然草には、そのまま落語になるようなはなしがいくつも見られます」と紹介されていた作品です。長くはないのですが、2回で描きます。


 丹波の国というのは今の京都府です。
 え、出雲大社って、島根県にあるんじゃなかったっけ?とお思いの皆さん、私もそう思いましたが、ここに登場する出雲の神社とは「出雲大社」ではなく、京都府亀岡市にある「出雲大神宮」のことなんですって!勉強になりますねー。


 狛犬は神社に行くと大抵いる、あれのことですが、「獅子」は何だ?と思いますよね。

 狛犬の起源は、昔インドで仏像の両側にライオンの像を置いたのから来ているそうですが、それが日本まで伝わって来る間に、日本にはライオンがいませんから、「犬」の字を使って名付けたそうなんです。

 神社に向かって見た時、右側にいるのが阿形(あぎょう。「あ。」という口の形・・口を開けている)、左側にいるのが吽形(うんぎょう。「うん。」という口の形・・口を閉じている)だそうです。
 息の合ったコンビ芸などを「あうんの呼吸」といいますが、ここから来ています。

 そして、阿形の方には角がないのが普通で、吽形には1本角があり、角がないのが「獅子」、角ありを「狛犬」と呼び分け、合わせて「獅子・狛犬」と呼ぶのが厳密な呼び方なんだそうですよ。(Wikipediaより)
 日ごろ何気なく「狛犬」と思っていた彼らに、こんな識別があったとは。恐れ入りました。

 それで、その獅子・狛犬が背中合わせに立っていたのにはどんな秘密があるのか?というのが、後半のお話。米朝師匠言うところの「サゲ」であります。



 シルバーウィークもあっという間に終わってしまいましたね。私は、連休って何?くらいにフツーに仕事だったので、お買い物渋滞から解放されてホッとしています。
 
 そんな連休中に、やっと『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を見て来ました。なにもわざわざ連休中に行かなくても良かったと思うんですけど、うっかりしている間にもう打ち切り館続出で、字幕で見られる映画館を選んでいるうちに連休に見に行くことになった次第です。

 もう結末は分かってるんですけど、ハーマイオニーとウォン・ウォンのすれ違いが歯がゆくて、泣けて来ました。そこって泣くところ?と思いますが、ハーマイオニーがいじらしくて〜・・。
 原作を読んでいなかったら、ハーマイオニーはハリーを好きなんじゃないの?と思うかなぁ、なんて思いながら。
 昔、『あすなろ白書』をドラマだけ見て、「なるみは何で取手君を好きにならないの?取手君でいいじゃん!木村拓哉だし!」と思ったのを思い出しました。
posted by juppo at 21:14| Comment(2) | TrackBack(1) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

神無月のころ

リクエストにお応えします。徒然草、第十一段です。
〈本文〉
 神無月のころ、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入ることはべりしに、はるかなる苔(こけ)の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵(いほり)あり。木の葉に埋(うづ)もるる懸け樋(かけひ)の雫(しづく)ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子(かうじ)の木の、枝もたわわになりたるが、周りをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばとおぼえしか。

kannaduki.jpg
〈juppo〉神無月とは、皆さんご存じの通り、陰暦十月のことです。この月には全国の神様が出雲に集結するので、神のいない月とか言うんですよね。ですから出雲では神有月になるそうです。


 懸け樋というのは、地面に架け渡した樋(とい)のことです。
 
「つゆおとなふものなし」で「音がしない」と「訪れるものがいない」の二つの意味を表現しています。短い言葉でこれだけの意味を持たせていると思うと、日本語の奥深さをしみじみ感じますね。「かくてもあられけるよ」とともに、その音も好きです。声に出して読みたい日本語。

 みかんの木が素晴らしかったのに、周りを囲んでいる所に、その実を取られないようにとの持ち主の因業さが垣間見えて、イイ雰囲気が台なしだ、と結んでいます。がっかりですね。


 みかんといえば、大人になってからは、いちいち皮を剥いて食べるのが面倒くさくてあまり食べていなかったのですが、今年の私はひと味違う私になって、なんとみかんを自ら八百屋で買って食べています。
 みかんのおかげで今年はまだ風邪もひいていません。というのは多分見当違いかとも思いますが、皆さんもみかんを食べて厳しい冬を乗り切ってください。



posted by juppo at 23:17| Comment(14) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月05日

公世(きんよ)のニ位のせうとに

徒然草、第四十五段です。
〈本文〉
公世の二位のせうとに、良覚僧正(りゃうがくそうじゃう)と聞こえしは、きはめて腹あしき人なりけり。坊の傍らに、大きなる榎(え)の木ありければ、人、「榎の木の僧正」とぞ言ひける。この名、しかるべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡、大きなる堀にてありければ、「堀池(ほりけ)の僧正」とぞ言ひける。

kinyo.jpg
〈juppo〉今回のお話を読んで、こんな話が昔話にあったな、と思われた方もいらっしゃるかと思います。

 昔話に『頭に柿の木』という話があります。酔っぱらった男の頭に、いたずらな子どもが柿の種を飛ばしたところ、男の頭から柿の木が生えて来て、男は頭になった柿を売って酒を飲む。子どもが木を切ってしまうと、今度は切り株に出来たきのこを売って酒を飲む。切り株を掘ってしまうと、穴にたまった水にウナギが住んでそれを売って酒を飲む、という話です。

 落語にも『あたま山』というネタがあります。これは男の頭に桜の木が生える話で、抜いた穴に水がたまるのは同じです。

 これらの話に関連があるのかどうか分かりませんが、木を切れば切り株が出来、切り株を掘れば穴が出来るというのは自然な流れなので、物語にしやすい展開なのだということなのかも知れません。
 
 
 頭に木がどうやって根を張っているのかとか、穴があいているところを想像すると、ややホラーです。

 あだ名を付けられるくらいは、まだ罪がないといえましょう。
posted by juppo at 23:31| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月31日

吉田と申す馬乗り

徒然草、第百八十六段です。
〈本文〉
 吉田と申す馬乗りの申しはべりしは、「馬ごとにこはきものなり。人の力、争ふべからざると知るべし。乗るべき馬をば、まづよくみて、強きところ、弱きところを知るべし。次に轡(くつわ)・鞍(くら)の具に、危ふき事やあると見て心にかかる事あらば、その馬を馳(は)すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ秘蔵(ひさう)のことなり。」と申しき。

umanori.jpg
〈juppo〉寒いですねぇ。ホントに寒いです。皆さん風邪などひいてませんか?受験生の方もそうでない方も、健康には充分気をつけてくださいね。

 
 さて、おかげさまでこのブログは今日で一周年を迎えました。去年の今日、徒然草の『ある人、弓射ることを習ふに』をUPしたのがスタートだったので、一周年の今日は同じ徒然草で、同じような達人の教えシリーズで描いてみました。

 簡単なようで、やはり素人には分からないことを、その道に秀でた人だけは知っている、というテーマは徒然草によく見られます。読んでみると「何ごとも基本が大事」ってだけの事だったりするんですが、それだけの事でもやはり、極めてみないと分からない真理であったりするんですね。

 それだけの経験と実績を積んでいる人だけに、それを語ることが許されているのだ、という見方もあるかも知れません。

 どんなことでも、長く一途にやり続けるのは大変なことです。このブログも、出来るだけ長くコツコツと続けて行きたいなぁ〜、と一周年の区切りに気持ちを新たにする作品となりました。

 
 皆様、これからもよろしくお願いいたします。

posted by juppo at 22:02| Comment(3) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする