2021年09月23日

世の人の心まどはす事

夏は夏で夏バテで仕事がはかどりませんが、秋になって涼しくなると、また安心して仕事を忘れてしまうようです。今日は暑いですけど。ご無沙汰しました。徒然草、第八弾です。
〈本文〉
 世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。人の心はおろかなるものかな。匂(にほ)ひなどはかりのものなるに、しばらく衣裳(いしやう)に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通(つう)を失ひけんは、誠に手足・はだへなどのきよらに、肥えあぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし。
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〈juppo〉暑いの涼しいのに関係なく、そういえばこのお話の訳だけ1ヶ月くらい前に作っておいて、それがどこかにいってしまい、しばし探し回っていたのでした。

 「徒然草」なんですけど、色っぽいお話です。教科書には載っていなさそうです。リクエストをいただいたわけでもありません。以前「あだし野の露」を描いた時にKSTプロダクションから送ってもらった詳しい本文の続きにあったので、ついでだから描こうかな、とコピーを捨てないで取っておいたのです。描いてみて初めて、セクシーな話だったと理解しました。

 人の心は色香に迷わされる愚かさも持っているけれど、異性の姿に惹かれるのはそれが自然なものだからで当然のことなのだ、というお話です。それこそ種の本能ってものですよね。

 後半に登場する「久米の仙人」は空を飛ぶ力も持っていたのに、飛行中にこういう事態になってその後神通力を失ったものの、その女性を妻として普通の暮らしをしたとかなんとか、伝説があるそうです。

 教科書には載ってないでしょうけど、こんなお話も載っていたら勉強も楽しいですよね、きっと。
posted by juppo at 22:56| Comment(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月10日

あだし野の露A

お待たせしました。後編です。
〈本文〉
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はぢ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思日、夕(ゆふべ)の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
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〈juppo〉少し前に漢文の漫画をお届けしながら「長生きはするものです」と書いていたわずか後に、「長生きしてどうする」なお話をご紹介することになるとは。そいつはすいませんでしたねー兼好さん、て感じですが、吉田兼好さんも定かでないにしろ70歳くらいまでご存命だったようですよ。

 結局のところ、年をとったら出しゃばらず大人しくして天命を待つがよろしい、ってことでしょうか。年を取るとどうしても、若い頃のように働けないですし、考えも偏るかもしれませんし、容姿もそりゃあ劣化はしますから。
 
 とはいえ、兼好さんの時代から比べたら寿命が圧倒的に伸びた21世紀に、40歳を過ぎたからといってそうそう引っ込んではいられないですね。人生の折り返しにも届いてないですよね。
 子や孫の可愛らしい姿を見ながら、「大人になるまで見届けたい」と願うのも自然なことだと思います。「夕の陽に」というのは寿命を1日の長さに換算して、陽の沈む時刻イコール人生の終わり頃、と言っているようです。

 兼好さんのご説に従えば、年をとっても「生をむさぼらず、もののあはれ」を知りながら生き続けるのであれば何歳になっても良い、ということだと理解したいです。

 誰もが等しく年は取っていくものですからね。永遠ではない人生を「あー面白かった」と振り返って終えられるように、毎日を過ごしていきましょう。
posted by juppo at 22:52| Comment(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月06日

あだし野の露@

リクエストにお応えします。「徒然草」第七段です。2回でお送りします。
〈本文〉
 あだし野の露きゆる時なく、鳥部山(とりべやま)の烟(けぶり)立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。
 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕(ゆふべ)を待ち、夏の蝉(せみ)の春秋(はるあき)を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮(くら)すほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜(を)しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも、一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。
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〈juppo〉昨日、この記事を投稿しようとしてPCを開いて作業中に、その段階になって漫画に描きもらした箇所がある事に気づきました。そして今日、その描き忘れた部分を描いて付け足しましたので、無事に更新します。付け足し作業はお絵かきソフトで行いました。

 さて今回は兼好さんの死生観というか、儚い命でも「そこがいい」話です。
 あだし野とは、京都嵯峨野の奥にあった墓地だそうです。東山の鳥部山のふもとにあったんですって。鳥部山の烟というのは、火葬場の煙なんですねー。
 そこにある露とか煙というのは、いつもあるものではないと、あったと思うと消えていたりするのだけれど、ずーっとあってもつまらないと思ってるんですね、兼好さんは。

 カゲロウとかセミとか、中でも短命なものと比べていますが、確かに生き物の中では人間は長生きですね。それでももっともっと、と願ってしまうのが人間の弱さなのか、死への恐れなのか、そういう欲は尽きないものです。
 
 長いようでもあっという間なのが人生という気もしますが、その限られた生をじっくり味わって生きたらどう?という兼好さんのメッセージなのかな、と思ったところで後半に続きます。
posted by juppo at 20:27| Comment(4) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月07日

つれづれなるままに

プリンタが壊れたので新しいのを買いました。5年ももったのはいい方らしいです。リクエストにお応えします。「徒然草」の、序段です。
〈本文〉
 つれづれなるままに、日くらし硯(すずり)にむかひて、心にうつりゆくよしなし事(ごと)を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
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〈juppo〉今までなぜこれを描いていなかったのか不思議なほど有名な、「徒然草」の最初の段です。短いからかなー。
 あまりにも有名なので、1コマ目の吉田兼好さんも、有名なあのお姿に寄せずにいられませんでした。

 「つれづれなるままに」は、「することがなくて退屈なので」などと訳されていることも多いと思いますが、寂しい気持ちも入っているようです。「ぼんやりと」にしたのは私の心境がここ数ヶ月「ぼんやり」だったからなんですけどね。

 最後の「あやしうこそものぐるほしけれ」は、まず係り結びですね。そして訳としてはそのまま「もの狂おしい」でもいいですし、何しろ「正気を失った」状態のようですね。単にざわざわするとか、ワクワクした気持ちなのではとも思いましたがこうなってしまいました。そんなにおかしくなっちゃうの?と訝しい気もいたしますが、そういう意味のようなので。

 「徒然草」はおひとり様生活の指針となる書であるとか、最近注目されている噂を聞いて、そういうネタの段を探して描こうと思っていた矢先にこのリクエストをいただきました。描いてみるとこの序段から、ひとり寂しくあれこれ思い出しているところなんですね。歳をとって、ひとり思い巡らす思索の数々・・がここから綴られていくのですね。
posted by juppo at 00:05| Comment(2) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月28日

これも仁和寺の法師B

今年もあと3日ですよ。完結編です。
〈本文〉
ものを言ふもくぐもり声に響きて聞えず。「かかることは文(ふみ)にも見えず、伝へたる教へもなし」と言へば、又仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。
 かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失(う)すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引き給へ」とて、藁(わら)のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、頸(くび)もちぎるばかり引きたるに、耳鼻かけうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。
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〈juppo〉ええ〜前回まで面白かったのに、こんな結末ヤダ。と思われるかもしれませんが、こういう話なんです。
 耳と鼻が欠けて穴になってしまったということですが、想像するのも嫌なので絵にしませんでした。耳と鼻が欠けるくらいなら、顎の骨なんかも砕けてしまうのではないかと思うのですけど、当時はまだX線がなかったので、外から見える障害にしか言及されてないのかもしれません。足鼎が外せない間はしばらく飲まず食わずでいたでしょうから、痩せて外せるようにはならなかったのでしょうか。「石鹸水をつけてみたら?」なんて助言してあげたくなりますね。石鹸があれば、ですけど。

 おそらくこれが今年最後の記事になる当ブログですが、こんな結末で締めくくることになるとは。何かもっとほんわかしたお話にすればよかったかなぁ、なんて思う年の瀬です。年末年始、大人の方はお酒を飲む機会も増えることと思いますが、飲む方も飲まない方も、くれぐれも外せないようなものを頭に被らないように、なメッセージになってしまいましたか。

 私の介護生活も当分続きそうです。母は車椅子でしか移動できないものの、最近スポーツクラブへまた連れて行っています。ヨガもピラティスもできないんですけど、とりあえず参加させてもらったり、メンバーさんたちと会って話しかけていただくと、元気になって帰れるし食欲も出るようです。会費を払っているとはいえ、こんな母を快く受け入れてくださるスポーツクラブには感謝しかありません。来年もよろしくお願いします、YOUTH町田さま。


 来年も皆さんにとって良い年でありますように。心も体も健康にお過ごしください。
posted by juppo at 23:32| Comment(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月22日

これも仁和寺の法師A

続きです。いつの間にやら年の瀬ですね。
〈本文〉
とかくすれば、頸(くび)のまはりかけて血たり、ただ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪(た)へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあし)なる角(つの)の上に、帷子(かたびら)をうちかけて、手をひき杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり、率(ゐ)て行きける道すがら、人のあやしみ見る事かぎりなし。医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやう)なりけめ。
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〈juppo〉面白すぎる、昔の人。何やってんでしょう。どうしても脱げないので割ってはずそうとしていますが、前回申し上げたように足鼎というものは金属製だそうなので、陶器かなんかだったらよかったんですが、そう簡単に割れるものとは思えませんよねー。お寺の鐘をつくような状態になるのではないかと想像できます。中の人は耐え難いでしょうね。
 帷子は単衣(ひとえ)の着物です。それを被ってても被ってなくても、人目を引くのは避けられないでしょう。隠されているものにこそ、人は興味を惹かれるものですからね。
 最後のコマで感想を述べているのは筆者の吉田兼好さんです。「徒然草」は兼好さんの徒然なる随筆なので、ご本人に語っていただきました。時々こんな風に登場してます。
 さて医者には打つ手があるのでしょうか。次回、完結編です。もう描いてあるので年内に更新します。予想外の結末を、なるべく焦らしてお届けしたい気持ちです。

 気がついたら今年もあと10日なんですね。今年は平成から令和への改元があったために、令和になってまだ半年くらいなのに!と意表を突かれた感じがしませんか。えっ、もう令和2年になっちゃうの?な感じ。それはそうなんですけど、やっぱり今までとちょっと違う。昭和から平成になった時は昭和64年は1週間しかなかったので、平成元年は普通の1年に感じられたんじゃなかったかなぁと思います。今年が短かすぎる気がするのは決して歳のせいじゃないんだ!という話です。
 
 
posted by juppo at 01:33| Comment(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月17日

これも仁和寺の法師@

大変ご無沙汰をしてしまいました。リクエストにお応えします。徒然草第五十三段です。
〈本文〉
 これも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残とて、各(おのおの)あそぶ事ありけるに、酔(ゑ)ひて興に入るあまり、傍(かたはら)なる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおし平(ひら)めて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入る事かぎりなし。
 しばしかなでて後、抜かんとするに、大方(おほかた)抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑(まど)ひけり。
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〈juppo〉書籍第四弾の告知をして以来、めっきり音沙汰なしですみません。新刊を買ってくださった方、ありがとうございます。ところが、発売した新刊に乱丁が発覚し、発売即回収なんてことになっていたようです。ご購入された方は今一度内容をご確認ください。108ページと110ページに同じ漫画が載っていたら出版元のKSTプロダクションまでご連絡くださいますよう。無料で訂正版をお届けするそうです。
 初版は全て刷り直して、そろそろ発売し直しているころかと思います。私はまだ現物を見ていないんですけどね。
 そんなアタフタでブログを放置していたわけではなく、初夏のころからは仕事が忙しかったというのが一番の言い訳なんですけど、別の理由もあります。その話は後ほど。

 仁和寺といえば「仁和寺にある法師」を昔描きました。「高校古文まだまだこういう話」に収録されています(宣伝)。
 今回のお話は『徒然草』でのその次の段なので、石清水八幡宮を知らなかったあのお坊さんのお話がもうひとつあるのかと思って描き始めたら、べつに同一人物ではないようです。仁和寺には話のネタになる坊さんが何人もいたということでしょうか。

 お寺にいる子供が登場すると、小坊主にしたりお稚児さんにしたり絵にするときに迷うんですけど、今回はこれから頭を剃って僧侶になる修行に出る子供とのお別れのようなので、まだ髪がある稚児の姿になっています。
 お坊さんたちもこんなに酒に酔って乱れるのか、と思われそうですが、そういう話なので。
 どんな身分の人でもお酒が入るとこんなもんかもしれません。そして酒の席というのは何かと行き過ぎてしまうのもよくあることですね。

 お坊さんが頭にかぶった足鼎とは足つきの釜で、お湯を沸かしたり食べ物を煮るのに使ったものだそうです。銅などの金属製だったようです。
 なぜそんなものを頭にかぶってしまうのか。酔っぱらいの前にそれがあったからとしか理解できません。そしてなかなか入らないものを無理やりかぶったので、やっぱり抜けないんですね〜。
 コメディの王道みたいな展開になってきました。どう解決するのかは、続きをお待ちくださいね。あと2回続きます。

 
 さて、ブログをサボっていたもう一つの理由です。10月後半から、私は母の介護をするようになりました。
 87歳になる母は9月の初めに腰椎の圧迫骨折をして、それでも1ヶ月は多少弱りながらも普通に生活していたのに、10月に入って一週間ほどで急に立つことも出来なくなったのです。食が細くなり、栄養を取れなくなってしまったことも原因のようで、2週間ほど入院して経過観察ののち退院し、その後は自宅で寝ています。
 退院しても歩けないのでリハビリに通ったり、最近はデイサービスに行き始めました。

 今月は日本語レッスンの仕事がお休みになり、久しぶりに無職になったので、介護をしながらもこうしてブログを再開することが出来ました。
 先月あたりは慣れない介護生活への動揺と疲労と体調不良な1週間もあったりして、結構大変でしたが、だんだん慣れてきたので時間を見つけて漫画描きます。頑張ります。
posted by juppo at 02:07| Comment(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月09日

亀山殿の御池に

ああっ、1ヶ月以上もご無沙汰してしまいました。リクエストにお応えします。「徒然草」五十一段です!
〈本文〉
 亀山殿の御池に、大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車(みづくるま)を造らせられけり。多くの銭(あし)を給ひて、数日(すじつ)に営み出出して、掛けたりけるに、おほかためぐらざりければ、とかく直しけれども、つひにまはらで、いたづらに立てりけり。さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうにめぐりて、水をくみ入るること、めでたかりけり。よろづにその道を知れる者は、やんごとなきものなり。
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〈juppo〉前回、与一くんの最終回を描いてからすぐのころ、もうすぐゴールデンウィークだなという時期に、私は突如として深刻なSMAP不足に陥りました。それからずっと、SMAPを見続ける日々です。ブログの更新はこの間したばかりだと思っていたら、そんなわけでSMAPを見てる間に5月がする〜っと終わってしまっていました。すみません。いつまで連休気分なのかと。
録画してあった番組とか、DVDとか、見てます。ずーっと。

 久しぶりの「徒然草」です。この「亀山殿の御池に」は、ブログを始めるよりも前に、塾で授業のために落書き程度に描いた作品の中のひとつでした。ブログを始めた当初は、それら落書き作品を順に描き直してupしてたので、これも早いうちに記事になるはずだったと思うのですが、10年も放置してしまいました。
 今回ちゃんと描いてみて、なぜそんなに手をつけないでいたかの理由がわかりました。主役が水車だから。それだけです。

 亀山殿とは、後嵯峨上皇と亀山上皇の別荘のことだそうです。
 
 えーと、後は特に説明することはないですね。そのままのお話ですよね。宇治の里人>大井の土民という内容になっているのは、読む人によっては引っかかるところでしょうか。宇治の里が水車造りで有名だったとか、そんな地域性があったのでしょうか。そんなことでもなければ、出身がどうより、その道に明るいかどうか、ということが重要なんですよね。最初から腕のある人を呼んでおけば良かった、て話ですね。

 大金を投じて動かないものを造ってどうするんだ!という点に注目するなら、豊洲とか五輪会場とか、タイムリーな話題に繋げられないこともないですね。
posted by juppo at 03:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月11日

家居(いへゐ)のつきづきしく@

ご無沙汰してしまいました。だいぶお待たせしているリクエストのうちの一つです。『徒然草』10段です。
〈本文〉
家居(いへゐ)のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、ひときはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきららかならねど、木だちものふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(すのこ)、透垣(すいがい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
 おほくの工(たくみ)の心をつくしてみがきたて、唐(から)の、大和(やまと)の、めづらしく、えならぬ調度どもならべおき、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目もくるしく、いとわびし。さてもやは、ながらへ住むべき。また、時の間(ま)の煙(けぶり)ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
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〈juppo〉梅雨入りしたとたんに雨がずーっと降っていますね。そして気がつくともうすぐ期末テストですね。

 徒然草です。相変わらず兼好さんがぼやいています。今回は人の住まいというものについてぼやいているようです。どんな家が良くてどんなのが良くないか、と言っているのですが、この章の、前半は良いもの、後半は悪いもの、という構成になっています。
 ぼーっと読んでいると、「おほくの工の・・・」からいろいろ書き連ねているものが、「良い」と思って書いているように錯覚するんですけど、兼好さん的にはそれらは「ダメ」なものたちなんですね。
 かいつまんで言えば、古いもの、自然なままであるものが「良い」。新しくていじってあるのは「悪い」ということのようです。

 兼好さんのように年をとってみると、家など生きている間だけの仮の住まいなのだから、凝ってみてもしょうがないよ、と思えるのには同感なのですけど、それでも住んでいる人柄がわかるような「こだわり」を兼好さんは欲しているようで、そのへんはやはり趣味の人だなー、と思いました。

 この段は続きがあるので、とりあえず@にしてありますが、Aはすぐに描きません。
 他のリクエストに先にお応えしてから、いずれ続きを描きたいと思っています。中途半端で失礼いたします。
posted by juppo at 04:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月31日

何事も、古き世のみぞしたはしき

 皆さん、明けましておめでとうございます!・・と、言おうと思ったらもう1月も終わりです。ご無沙汰してすみませんでした。
 『徒然草』第二十二段です。リクエストにお応えしています。それから、後ほど重大発表があります!
〈本文〉
 何事も、古き世のみぞ慕(した)はしき。今様(いまやう)は、無下(むげ)にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠(たくみ)の造れる、うつくしき器物(うつはもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
 文(ふみ)の詞(ことば)などぞ、昔の反古(ほうご)どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。『古(いにしへ)は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数(とものれうのにんじゅ)立て」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ*、最勝講(さいしょうかう)の御聴聞所(みちやうもんじょ)なるをば「御講(ごかう)の廬(ろ)」とこそ言ふを、「講廬(かうろ)」と言ふ。口をし』とぞ、古き人は仰せられし。
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〈juppo〉昔は良かった、今時の若い連中と来たら・・という話です。『徒然草』にはよくこの手の話が出てくるような気がします。結局、兼好法師もジジィなんだなと思わざるを得ませんが、昔に比べて今はいろいろと残念だと思う気持ちは、いつの時代も変わらないということですね。「今様の人は」と言っていますが、今と言っても何百年も前なんですからねー。

 反古(ほご)という言葉は、今でも「反古にする」なんて使い方で残ってると思いますが、ここでは失敗して捨てた手紙を指しています。これも未だに使う言い方だと思いましたが、よりわかりやすく「ボツ」にしてあります。
 失敗作でも昔の手紙の方が、今時の手紙より優れた言葉が綴られていると言ってるのですね。
 「車もたげよ」、「火かゝげよ」の部分はわかりやすい言葉に置き換えて訳しましたが、それぞれ「牛車に牛をつけること」「灯火の灯心をかき立てること」を言ってるのだそうです。
 「主殿寮」は昔の役所の名前で、そこの役人の仕事の一つに灯燭に灯をともすのがあったそうです。
 「最勝講」は宮中で行われていた法会のことだそうです。 偉いお坊さんの話を天皇が聴講した場所を、「御講の廬」と言ったのに、略して「講廬」などと言う者がいる、と年寄りが嘆いている訳です。

 こういう話を読むと、乗っかって「最近の気になる言葉」を羅列したくなるところですが、冒頭で申し上げました通り重大発表があるので今回は羅列しません。


 なんと、このブログのサービス提供先LOVELOGが、終了するそうなんです!
 
 ブログ更新・編集は3月で、閲覧は6月でそれぞれ終了するそうです。

 こんなことなら、2年前KDDIに見切りをつけた時に、さっさと引っ越してしまえば良かった・・と頭を抱えています。

 2年前、軽くブログの引っ越しをしかけたんですけど、完全移行せず、めんどくさくなって新居は今、閉鎖しています。

 でも、こうなったらその時引っ越しかけた新居に、完全転居することにします。
 ですからブログ自体は、閉鎖しません。

 3月まではこのまま、ここで更新を続けますのでどうぞおつきあいください。
 追々引っ越し先を大々的に告知しますので、よろしければそちらの方にもお出かけくださいますように。

posted by juppo at 23:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月01日

牛を売る者ありA

後編です。
<本文>
皆(みな)人あざけりて、「そのことわりは牛の主に限るべからず。」と言ふ。
 またいはく、「されば、人、死を憎まば、生(しやう)を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、あやふく他の財をむさぼるには、志満つことなし。生ける間、生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、このことわりあるべからず。人みな生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり。もしまた、生死(しやうじ)の相(さう)にあづからずと言はば、まことのことわりを得たりと言ふべし。」と言ふに、人、いよいよあざける。
ushi2.jpg1ヶ月もサボっていたのに、連休に入った途端連日更新とは、よほどすることがないのだな、と思われてしまいそうですが、その通りです。
 私はがっつり大型連休の予定なので、どこかに出かけようかな〜と思っていたんですけど、ここ最近事故のニュースが多くて、遠出する気持がちょっと萎えてしまいました。
 お出かけの予定がある方は、事故にはくれぐれも気をつけてください。

 家にいたって何があるかわからないんですけどね。
図らずも、今回の作品で兼好法師が言っているのもそういうことのようです。

生死についての話をしているのが兼好さんだとは本文には書かれていないのですが、兼好さんの主張と考えて良いようなので、漫画ではそれらしく描きました。

人間も牛もいつ死ぬかわからないんだから、今ある命に感謝して、その喜びを堪能しましょうよ、て話です。

 実際にテレビで悲惨な事故の映像を見たりすると、それでなくても昨年の震災以来、今日の生が明日もあるとは何の保障もないのだということを意識するようになった方も多いと思います。

 この世に生まれた偶然、今日まで生きている幸運、それだけで凄いことなのだなぁ、と思えたら、日常の些細な不平不満も解消できるかもしれません。

 恐らく「まことのことわり」を得るのはそうたやすいことではないのでしょうけど、少しでもそこに近づけるように、日々の喜びを楽しみましょう、皆さん。

 

posted by juppo at 03:44| Comment(5) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月30日

牛を売る者あり@

こっそりリクエストにお応えします。『徒然草』、第九十三段です。
<本文>
「牛を売る者あり。買ふ人、『明日そのあたひをやりて、牛を取らん。』と言ふ。夜の間に、牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり。」と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者のいはく、「牛の主、まことに損ありと言へども、また大きなる利あり。その故は生(しやう)あるもの、死の近きことを知らざること、牛、すでにしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存(ぞん)ぜり。一日の命、万金(まんきん)よりも重し。牛のあたひ、鵞毛(がまう)よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず。」と言ふに、
ushi1.jpg皆さん、ご無沙汰しておりました。新学期が始まったのにブログを放置してしまっていました。今回は、過日リクエストを頂いたのにすぐにはお応えできなかったのでそのままスルーしていたものです。他にもそういうスルー作品があるんですけど、いずれお応えできればと思っています。

 牛の代金を払う前に、商品の牛が死んでしまったという冒頭から「これは法律の問題ではっ!?」なんて思わされますね。牛が死んでも買った人は代金を払う義務があるのかどうかと。上沼恵美子相談員なら億万長者だから「払う」と答えるかな、なんて。

 ところがそういう問題ではないんですね。命の問題なのです。牛で儲けようが儲けなかろうが、命があるだけで万金に値する価値がある、ということです。「生きてるだけで丸儲け」な話です。
 そりゃそうなんだけど、なかなかすんなり理解しずらい話ではあります。後半はそういう展開になります。
 続きは必ず、連休中に。


 ブログをなかなか更新しない間に一体何をしていたのかというと、実は私は着々とブログの引越し作業をしていました。引っ越します。
 コメント等でアドバイスを頂いて、試行錯誤を重ねた結果、LOVELOGに対応している丸ごと引越しサービスが見つからず、結局「インポート/エクスポート」機能を使って地道に少しずつ運んでいます。今年は塾の引越しに始まって、こんなことの繰り返しだなぁ。
 そういう訳で、引越し先は以下なんですけど、今はまだ工事中で全然ポンコツです。

 完全に引越しできたら、改めてここでお知らせします。また、それまでは記事の更新はこちらで行います。

 引越し先は、exciteブログ↓
http://kokokobun.exblog.jp/

posted by juppo at 02:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

悲田院の堯蓮上人は

リクエストをいただいたものです。『徒然草』です。
〈本文〉
 悲田院(ひでんいん)の堯蓮上人(げうれんしゃうにん)は、俗姓(ぞくしゃう)は三浦のなにがしとかや、さうなき武者なり。故郷(ふるさと)の人の来たりて物語すとて、「吾妻人(あづまうど)こそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、ことうけのみよくて、まことなし。」と言ひしを、聖(ひじり)、「それはさこそおぼすらめども、おのれは都に久しく住みてなれて見はべるに、人の心劣(おと)れりとは思ひはべらず。なべて心やはらかに、情(なさけ)あるゆえに、人の言ふほどのこと、けやけく否(いな)びがたくてよろづえ言ひ放たず、心弱くことうけしつ。いつはりせんとは思はねど、ともしくかなはぬ人のみあれば、おのづから、本意(ほい)通らぬこと多かるべし。吾妻人は、わがかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、ひとへにすくよかなるものなれば、始めより否(いな)と言ひてやみぬ。にぎはひ豊かなれば、人には頼まるるぞかし。」とことわられはべりしこそ、この聖、声うちゆがみ、あらあらしくて、聖教(しゃうげう)のこまやかなることわり、いとわきまへずもやと思ひしに、この一言(ひとこと)の後、心にくくなりて、多かる中に寺をも住持せらるるは、かくやはらぎたる所ありて、その益(やく)もあるにこそと覚えはべりし。

hidenin.jpg
〈juppo〉この冬初めてのまとまった雪が降りました。寒いです。
 この作品はなんと去年の夏にリクエストいただいたもので、今まで放置していた罪悪に身も震える思いです。本当に申し訳ありません。


 長い本文を1ページにまとめてしまったのでご覧の通り字だらけですが、要するに、「都会の人は冷たい。田舎の人は親切。」と言った人に、「そんなことはない。」と否定し、その理由を分かりやすく説明してくれた偉いお坊さんの話です。

 田舎の人と都会の人とを比べて、心自体が違うということはない、置かれた状況が違うから付き合い方にも差が出るのだ、という解説はなるほどと思いますよね。


 「東京の人は冷たい」というのも良く聞く話ですけど、東京人のほとんどは、田舎から出て来ている人ですからねー。

 「東京は雪に弱い」とも言いますが、これは本当です。ほんの5��積もっただけで大打撃です。東京の人は雪が降ると必ず滑る靴を日ごろ履いているのだなーと、雪が降ってから学習します。商店街のオシャレなタイルも、積雪時のことなどこれっぽっちも考えずに敷いてあるのです。


 そんな訳で雪景色の連休、皆さんいかがお過ごしですか。寒の戻りで風邪などひかれませんよう、ご自愛ください。
posted by juppo at 15:53| Comment(6) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月22日

いでや、この世にC

続きです!
〈本文〉
 ありたき事は、まことしき文(ふみ)の道、作文(さくもん)、和歌、管弦(くわんげん)の道、また有職(いうそく)に公事(くじ)の方(かた)、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙(つたな)からず走りがき、声をかしくて拍子(はうし)とり、いたましうするものから、下戸(げこ)ならぬこそをのこはよけれ。

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〈juppo〉寒いですね〜。我が家ではこたつを出しました。これで平年並みの気温だそうですが、今年は暑さが厳しかった分、寒さが余計に堪えますね。皆さん、風邪などひかないよう注意してください。


 さて、『いでや、この世に』は今回で終了です。
 この世に生まれて来たからには、こーなりたい、あーなりたい、という希望を並べた段だった訳ですが、締めは酒の飲み方というところが兼好さんの人柄なんでしょうか。

 今回だって出だしは学問とか文化的な素養を並べているのに、急に最後に来て、飲む席では多少飲めた方がいいよ、てなご意見ですね。

 「下戸」という言葉を口語訳では「酒が飲めない」と訳していることもあるようですが、今でも「下戸」って言うよね?と思って漫画ではそのまま使いました。

 下戸の反対は上戸(じょうご)と言って、「笑い上戸」「泣き上戸」などもそこから来ています。

 要するに、お酒をたくさん飲む人を「上戸」、飲めない人を「下戸」というのです。

 結局説明してしまいました。


 「をのこはよけれ」と言っているのは、わざわざ「男」限定で述べているようで、「女は飲まない方がいいけどね」という意味を含んでいるそうです。
 現代では差別発言に取られかねません。


 私も多少お酒は飲みますが、酒の席というものにはめっきり参加しなくなりました。
 車で移動することが多くなって、家でもめったに飲みません。
  
 飲むのは嫌いじゃないんですけど、酔っ払いは嫌いです。隣の席に割って入って「飲んでないじゃん〜」などと勧めて来るようなのは特に。

posted by juppo at 22:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月04日

いでや、この世にB

なかなか続けて更新できませんが・・・頑張ってます!
〈本文〉
 人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎょう)ありて、言葉おほからぬこそ、飽かず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、こころ劣りせらるる本性(ほんしゃう)見えんこそ口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も才(ざえ)なくなりぬれば、しなくだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけず、けおさるるこそ、本意(ほい)なきわざなれ。
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〈juppo〉急に寒くなりましたね。皆さんお変わりありませんか。

 私は何だか忙しいんです。ここ最近、仕事がマトモにあるんです。そういう訳で、また久々の更新になってしまいました。



 一言でいってしまうと、「誰でも美男美女になりたいけど、結局中身だよ!」という話ですよね。

 この当時は見た目や家柄は、もう生まれた時の条件で一生を生きることになるので、外見は変えられないけど、中身はいくらでも向上できるでしょ、ってところもポイントです。


 現代では、見た目でも地位でも、やる気次第で変えることは可能ですからね。
 心をさておいても、外側から良くして行こう、と思うのも人情ですが、やっぱり中身を良くすることには勝らない、と私も思います。外側には中身が滲み出るものでもありますし。


 と、いうようなことを言い訳に、外見に全く構わなくなったお年頃の私です。
 構わなすぎもちょっとマズいな、と感じ始めたので、晴れてる日だけUVケアとか薄化粧とかするようになりました。
 つまり、曇り・雨の日はすっぴんです。晴れててももう秋だからいいか、くらいの適当さです。
posted by juppo at 21:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

いでや、この世にA

大変ご無沙汰をいたしました。ぼちぼち、再開します。
〈本文〉
 法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。「人には木の端(はし)のやうに思はるるよ。」と、清少納言が書けるも、げにさることぞかし。いきほひまうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀(そうが)ひじりの言ひけんやうに、名聞(みゃうもん)くるしく、仏の御(み)をしへに違(たが)ふらんとぞおぼゆる。
ひたふるの世すて人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

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〈juppo〉今年の夏は本当〜に暑かったですね。たくさんの方にご心配をかけてしまいましたが、私は元気です。いろいろありましたが、すべきことをしようと思います。

 さて、中途半端に�,世栄舛い拭悗い任筺△海寮い法戮梁海C任后�その�,量_茲涼罎如峺遽辧廚了「�間違っていて、それも直さないとな〜と、ずっと気になっていましたが、さっき直しました!

 兼好法師、いきなりの自虐ネタです。お坊さんというのは世間から浮いた存在であるところに有難みがあるのに、世間でもてはやされてどうする、というような自戒を込めた兼好さんのメッセージかと思います。

 増賀ひじりという方は、名誉や利益を捨てた、天台宗の偉いお坊さんだそうです。

 こんなところで清少納言さんにお会いするとは思っていませんでしたね。「法師になったら人から木の端みたいに思われる」というのは『枕草子』にある一節のようです。いずれ描くかも知れません。


 そういう訳で復活しました。今後もなるべく、ブログは更新して行きたいと思っています。そうちょくちょくとは行かないかもしれませんが、今までもそうだったので、皆さまも以前のように暖かい心でおつき合いください。

 これからもよろしくお願いします!
posted by juppo at 22:54| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月05日

いでや、この世に@

いろいろと、お詫びすることがあります。『徒然草』第一段です。
〈本文〉
 いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事おそ多かめれ。御門(みかど)の御位はいともかしこし。竹の園生(そのふ)の末葉(すえば)まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一(いち)の人の御有様はさらなり、ただ人(びと)も、舎人(とねり)などたまはるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・孫(うまご)までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下(しも)つ方は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。
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〈juppo〉皆さま、大変ご無沙汰してしまいました。お詫びは後ほど。

 リクエストをいただいた作品です。『徒然草』第一段です。『徒然草』といえば、「つれづれなるままに、日暮らし・・・」で始まるのはあまりにも有名ですが、そこは「序段」になるんですね。


 願いごとの第一位はいい身分だというのは時代を感じますよね。今はそれほどのランクにならないのではないかと思いますが、いかがでしょう。
 帝の血筋は「人間の種ならぬ」と言っております。『古事記』によれば天皇の祖先は神様ですからね。我々と同列には語れないのですね。皇室の方々の似顔絵も恐れ多くて描けないんですよ。



さて、ここからお詫びです。

 実は、今年の夏も父が入院しています。
 父は去年のちょうど今日、内臓を摘出する大手術を受け、成功して無事に退院したのですが、一年も経たないうちにガンが再発しました。

 今年の方が母と私にとって辛い父の入院になってしまいました。まだ父の闘病は続いているんですけど。


 今回の作品はリクエストをいただいたもので、深刻な状況になる前に描いておけば良かったのに、そういうことになってなかなか時間が取れなくなってしまいました。

 今回の原稿はほとんど病院で描きました。PCは塾にあるので、今は塾にいます。この記事を更新したらまた病院に行きます。

 病院で付き添っていても、私にできることはさほどないので、なるべく時間を見つけてこうしてブログは続けたいと思っています。
 それでも、せっかくリクエストをいただいたのにお応えするのにこんなに時間がかかってしまっていること、高校生の皆さんの夏休みの学習のお手伝いが今年はあまり出来ないことを、心からお詫びいたします。ごめんなさい!
posted by juppo at 11:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月20日

能をつかんとする人

もうひとつリクエストから。『徒然草』第百五十段です。
〈本文〉
 能(のう)をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひ人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさしいでたらんこそ、いと心にくからめ。」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得(う)ることなし。いまだ堅固(けんご)かたほなるより、上手(じやうず)の中に交じりて、そしり笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎてたしなむ人、天性(てんせい)その骨(こつ)なけれども、道になづまず、みだりにせずして年を送れば、堪能(かんのう)のたしなまざるよりは、つひに上手の位(くらい)に至り、徳たけ、人に許されて、並びなき名を得ることなり。
 天下のものの上手といへども、初めは不堪(ふかん)の聞こえもあり、むげの瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟(おきて)正しく、これを重くして放埒(はうらつ)せざれば、世の博士(はかせ)にて、万人(ばんにん)の師となること、諸道変はるべからず。

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〈juppo〉「能をつかん」の能とは、才能ではなく芸のことだったんですね。

 「上手くなってから人前でやろう」と言っている人は結局芸を身につけられないというのは、今密かに何かの練習をしている人にとっては衝撃のアドバイスですね。

 私は結構言いたがりなので、「最近○○始めました」とか「○○にハマっています」なんてすぐ人に言ってしまうんですけど、それで身を立てようと思うほどのことじゃないから簡単に言えるのかも知れません。



 そういえばテスト前に「全然勉強してない〜」と言う人の方が良い点を取る、というのは大昔からあるテスト勉強の定義みたいなものだと思いますが、今でもそうですか?
posted by juppo at 21:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月19日

羅(うすもの)の表紙は

リクエストにお応えします。『徒然草』、第八十二段です。
〈本文〉
「羅(うすもの)の表紙は、とく損ずるがわびしき。」と人のいひしに、頓阿(とんあ)が、「羅は上下(かみしも)はつれ、螺鈿(らでん)の軸(ぢく)は貝落ちてのちこそいみじけれ。」と申しはべりしこそ、心まさりて覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都(こうゆうそうづ)が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなきもののする事なり。不具なるこそよけれ。」と言ひしも、いみじく覚えしなり。
「すべて、何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏(だいり)造らるるにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり。」と、ある人申しはべりしなり。先賢のつくれる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたる事のみこそはべれ。

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〈juppo〉そうそう、書き忘れていましたが、前回の『文字一つ返し』を描くのにも図書館で『十訓抄』を借りて来たんですよ。教科書や参考書ではちらちら見るのに、『十訓抄』って意外にマイナーな古典のようで、図書館で検索した挙げ句、雲の上くらい高い棚にあるらしかったので、職員の人を梯子に登らせて借りて来ました。

 『徒然草』はその点、手元にいくらでも訳があるので助かります。

 今回は鎌倉時代の出版業界の話ですね。「羅」は薄手の絹織物のことで、当時は本の表紙にそれを使っていたんでしょう。多分高級で多分繊細な布地なので、「読んでるうちにボロボロになっちゃうよ!」というようなモノだったんですね。

 ところが見る人が見れば、「そういうところがいい」と。書物は本来、人の手に触れて読まれることが前提のものですからね。
 でもBOOK OFFでは高く売れないでしょうね。

 何巻も続く本が各巻バラバラの装丁になっている、というのも現代では考えられないことですが、当時は大手出版社とか著作権なんてなかったのですから無理もないですね。

 集めて読んでいる人にとっては見苦しいことこの上なかったでしょうけれど、これまた見る人が見れば「それがいい」と。

 頓阿という人は歌人で、弘融僧都は「法顕三蔵の、天竺に渡りて」という段にも登場した『徒然草』の準レギュラーですが、後半に登場する「ある人」は誰だか分かってないらしいです。

 その「ある人」の言う「生き延ぶるわざ」とは、やり残した仕事を見た人が「生き延びた心地がする」という解釈と、やり残された仕事自体が「生き延びている」という解釈と、二つの説があるようです。

 何でも、やりかけのことはまだ手を入れる余地がある訳ですし、それをする人も、やらなければならない義務がまだ残されているうちは人生を終える訳にはいかない、という考え方ができますよね。
 私には二説とも正解なんじゃないかな、と思えました。

 そういう意味で、何でもやりかけにしてしまうのが得意な私です。中途半端なだけに見えるかも知れませんが、長く生きる秘訣なんですよ、とこれからは堂々と言おう。


 それにしても暑いですね。毎日雨が降るのに毎日30度くらいになるのはどういうことなんでしょうか。
posted by juppo at 20:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

寺院の号

徒然草、第百十六段です。
〈本文〉
 寺院の号(な)、さらぬ万(よろづ)の物にも、名をつくること、昔の人は、少しも求めず、ただありのままに、やすくつけけるなり。この頃は、ふかく案じ、才覚をあらはさむとしたるやうに聞こゆる、いとむつかし。人の名も、めなれぬ文字をつかむとする、益(やく)なきことなり。
 何事も、めづらしきことをもとめ異説を好むは、浅才の人の必ずあることなりとぞ。

jiin.jpg〈juppo〉今回のお話はあまり教科書には載っていないかも知れません。実は2ちゃんねるで拾って来たネタです。


 今日見たニュースによると、2009年度赤ちゃんの名前ランキング(たまひよ調べ)第1位に輝いたのは、

 男の子 大翔(ひろと)
 女の子 凛(りん)

だそうです。

 ランキング一覧を見ると、私の世代では「なんて読むの?」と聞かれかねなかったような独特の読み方をする漢字の名前が並んでいるんですけど、読んでいるうちに傾向というか、流行りというか、だいたい似たパターンになっていることが分かります。

 この子たちが漢字を書けるようになるころには、それぞれの読み方が定着して、結構みんなありふれた名前になっているのかも知れないな、と思いました。


 それでも時々、「どうしてこんな名前にしたんだろう」とか「どうしてこの漢字を選んだんだろう」と首を傾げたくなる名前に遭遇することがあって(大抵ニュースで見るんですけど)、私には子どもの名前をつけた経験なんてないので偉そうなことは言えませんが、名前はやっぱり読みやすくて覚えやすいものの方がいいんじゃないかな、と思っていました。


 そういうことを、およそ七百年前に兼好さんも憂いていたのです。

 そんな昔から奇をてらった名前をつけたり、難解な漢字を使う人がいて、その傾向を「そんなことは才覚のある人のすることではない」と断言しているのが、快哉、でもあり面白くもあり、で今回この作品を紹介することにした訳です。



 実は私は5月に生まれる予定で、もし5月中に生まれていたら「さつき」という名前になる予定だったそうです。

 予定がずれ込んで6月に生まれたので、英語で6月はJuneだから、という理由で「純子」になったんです。
 そんなインテリなことをうちの両親がなぜ考え付いたのか不思議ですが、この命名理由は外国人にも理解されやすくて重宝しています。



 ところで、私には新体操をやっている大学生の姪がいます。
 その姪が明日の夜、TBSの『ホリさまぁ〜ず』という深夜番組に出演するそうです。

 12/8(火)25:05〜の放送です。さまぁ〜ずが大学に来て一緒に(?)新体操やったらしいです。
 興味のある方、毎週見てる、という方は是非ご覧ください。



 ちなみに姪は「柴田さん」じゃありません。
 長田侑里乃(おさだ ゆりの)といいます。どうぞよろしく。
posted by juppo at 20:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする