2007年12月14日

さしたる事なくてA

はいっ!続きです!
〈本文〉
心づきなきことあらん折は、なかなかそのよしをも言ひてん。
 同じ心に向かはまほしく思はん人の、つれづれにて、「いましばし。けふは心しづかに。」など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍(げんせき)が青き眼(まなこ)、たれもあるべきことなり。そのこととなきに、人の来たりてのどかに物語りして帰りぬる、いとよし。また、文(ふみ)も、「久しく聞こえさせねば。」などばかり言ひおこせたる、いとうれし。

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〈juppo〉用もないのに人の家に行くなよ、と言っていた前半から一転して、後半では用がなくてもゆったり話せる関係っていいよね、という内容になっています。「どっちやねん!」と突っ込みたくなるのはヤマヤマですが、前半と後半では、訪ねる間柄の親しさの度合いが違う、と考えてください。

 訪問する時の礼儀とか心配りはもちろん大事なんですけど、中にはそんなこと気にせず付き合える親友もいて(気の置けない仲ってヤツですね)、そういう間柄の友となら建て前なしに語り合えるし、「ご無沙汰」の一言で分かり合える。そういうの、イイでしょっ?って話です。

 1行目の「なかなか」は、もともと「中途半端な」という意味でしたが、いつしか意味が逆転して「中途半端は良くない」→「かえって」という意味で使われています。「ヤバい」が本来の「良くない状況だ」という意味から「ものスゴクいい」という意味に変わって来たような、そんな日本語の揺れは常にあるのですね。


 阮籍は、むかし中国にいた偉い人で、漫画に描いたように青い眼と白い眼を使い分ける事が出来たのだそうです。この人が気に入らない人を白い眼で睨んだ事から、「白眼視」という言葉が出来ました。本当ですよ。


 阮籍のような超人的な力がなくても、その人の表情を見て自分が歓迎されているかどうかが分かるはずだ、ということなんです。「たれもあるべき」というのは。

 要するに大事なことは、「空気を読めよ!」ってことですよね。こんな表現があるのも、本音と建て前文化の日本ならではだと思いませんか。
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2007年12月10日

さしたる事なくて@

徒然草、第一七〇段です。
〈本文〉
 さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬことなり。用ありて行きたりとも、そのことはてなば、とく帰るべし。久しくいたる、いとむつかし。
 人と向かひたれば、詞(ことば)おほく、身もくたびれ、心もしづかならず、よろづのことさはりて時を移す、互ひのため益なし。いとはしげに言はんもわろし。

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〈juppo〉最近流行りの、『○○の品格』みたいな話です。そんなに長くないんですけど、2回に分けます。
 日本人は「本音」と「建て前」を使い分ける民族なので、相手の気持ちを測るのは大変難しいのですね。でも、相手を思いやるからこそ「建て前」文化が発達したので、そのこと自体は決して悪いことではないし、むしろ誇っていいと私は思います。
 
 私自身は相手の「本音」を読むのが本当〜に苦手で、いつも言われたことを額面通りに受け取って失敗ばっかりしてるんですけど。
 
 人はなかなか「本音」を言わないのだから、訪ねていく時はこういったことに注意しましょう、というマナー本のようなお話です。続きは近日中に。
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2007年11月18日

雪のおもしろう降りたりし朝

徒然草、第三十一段です。
〈本文〉
 雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事(かへりごと)に、「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人のおほせらるる事、聞きいるべきかは。かへすがへす口をしき御心なり。」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。

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〈juppo〉寒くなったので雪の話です。関東地方では当分雪が降る気配はありませんが、日に日に寒くなりますね。今日はマフラー巻いて来ました。手袋もそろそろ出さなければ。

 このお話で読み取りたいことは、「手紙には時候の挨拶を忘れずに」「いつでも風流な人間でいよう」「亡くなった人の些細なセリフが忘れられない」というようなことです。

 日頃用件しか書かない携帯メールでも、書くことがないと敢えて「今日寒いね」なんて書いてしまう私たち日本人のDNAには間違いなく、兼好法師のそれと同じものが流れているのですね。

 降った雪がどうか、なんてことは「ハッキリ言ってどうでもいい。寒いだけ。」としか思えないとしても。
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2007年09月08日

法顕三蔵の、天竺に渡りて

徒然草、第八十四段です。
〈本文〉
 法顕三蔵(ほっけんさんざう)の、天竺(てんぢく)に渡りて、故郷(ふるさと)の扇(あふぎ)を見ては悲しび、病に臥しては漢の食(じき)を願ひたまひける事を聞きて、「さばかりの人の、むげにこそ心弱きけしきを、人の国にて見えたまひけれ。」と人の言ひしに、弘融僧都(こうゆうそうづ)、「優(いう)に情(なさけ)ありける三蔵かな。」と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくく覚えしか。

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〈juppo〉
修行を積んだ僧ならば、世俗のことなどに超越している筈なのに、故郷を思ってメソメソ・ウジウジする様子が意外だ、と言う人に「そんな人間くさいところがいいじゃないか」と言った弘融さんもまた、ニクイ人だ、という話です。弘融僧都は兼好さんの知り合いだった人のようです。


 某8チャンネルが夏じゅう「なまか、なまか」とキャンペーンしてたあの映画に、今ごろ便乗してみました。

 便乗しておいてこんなことを言うのもナンですが、実は、『西遊記』の三蔵法師と、ここに登場する法顕三蔵は、別人です。

 『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵は、629年から16年かけて天竺(今のインド)にお経を取りに行った人ですが、法顕三蔵はそれに先んずること2世紀、399年から13年かけて天竺を旅しました。「三蔵」という言葉は3種類のお経を指し、それらに通じた偉いお坊さんの事を「三蔵法師」と呼んだのだそうです。まぁそんな訳で法顕三蔵は別にサルやブタやカッパと旅をした訳ではないんですけどね。それは玄奘三蔵も同じな訳ですから。イメージで読んでください。

 ところで、皆さんにとって三蔵法師といえば、やはり深津絵里なのでしょうか。
 私にとって、三蔵法師といえば、深津絵里でも夏目雅子でも、ましてやいかりや長介の人形でもなく、1967年に虫プロが製作したアニメ『悟空の大冒険』の、三蔵法師です。
 偉いお坊さんの筈なのに、ピンクの腰巻きをチラチラさせながら、野沢那智の声で「あーれぇ〜」とか「悟空やぁ〜」とか言っていた、思えば気弱さ全開のお師匠さんだった、あの三蔵法師のイメージは大です。
 ここで描いている古文の漫画でも、「僧」はもれなく「坊さん」と訳してしまうのには、あの悟空の影響があるのかも知れません。恐るべし、幼時体験。
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2007年06月20日

高名の木登り

徒然草、第百九段です。
〈本文〉
 高名の木登りといひし男(をのこ)、人をおきてて、高き木に登せて梢(こずえ)を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに、軒たけばかりになりて、「過ちすな。心して降りよ。」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」と申し侍りしかば、「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、おのれが恐れ侍れば、申さず。過ちは、やすき所になりて、必ずつかまつることに候ふ。」と言ふ。
 あやしき下臈(げらふ)なれども、聖人(しゃうにん)の戒めにかなへり。まりも、難き所を蹴いだしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。


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〈juppo〉暑いですね。暑いというだけで、何もする気にならないのは何故でしょう。大鏡をUPしてから「次は何を描こうかな〜。」とずっと考えていた結果、さくっと短いものにさせていただきました。
 「失敗は簡単な所で犯してしまう」というのは全くそのとおり、としか言い様のないお言葉です。簡単な所、すっかり慣れたところで失敗する例はあらゆる所に発見出来ます。
 ところで本文の「まり」は「蹴鞠(けまり)」のことで、蹴鞠というのは昔の貴族の遊びで「何人かで丸くなってリフティングをし合い、落としたら負け」というルールですから、「落とす」というのは文字どおり「地面にボールを落とす」という意味です。面白いからサッカーにしてしまいましたが、蹴鞠とサッカーは違います。言うまでもないですか?
 面白いから、で描いた最後のコマですけど、「ドーハの悲劇」ってもう15年前くらいの出来事ですよね。
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2007年05月22日

相模の守時頼の母は

徒然草、第百八十四段です。
〈本文〉
 相模の守(かみ)時頼の母は、松下の禅尼(ぜんに)とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、すすけたる明り障子の破ればかりを、禅尼手づから、小刀して切り回しつつ張られければ、兄(せうと)の城の介義景(よしかげ)、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりてなにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候。」と申されければ、「その男、尼が細工によもまさりはべらじ。」とて、なほ一間づつ張られけるを、義景、「皆を張りかへんは、はるかにたやすく候ふべし。まだらに候ふも見ぐるしくや。」と重ねて申されければ、「尼も後はさはさはと張りかへんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理(しゅり)して用いる事ぞと、若き人に見ならはせて心つけんためなり。」と申されける。いとありがたかりけり。
 世を治むる道、倹約を本とす。女性(にょしゃう)なれども聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を、子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。

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〈juppo〉エコです。エコライフ。後で張り替えるとは言ってますが。ついでに、「女性なれども聖人の心に通へり」とはあからさまに女性蔑視な気もします。
ところで、皆さんの家には障子はありますか?私の家にはありますが、今これを書いている部屋(塾で借りているマンション)にはありません。自宅にある障子も昔のように張り替える作業をそんなにしなくなりました。こうして漫画で表しても「一体この尼は何をやっているのだ?」という事が容易には分からなくなる時代が来るのでしょうね。もっとも七百年も前のことですから、絵にしただけで多少分かりやすくなる方が貴重です。日本の家屋と障子とは、本当に長年相性が良かったのですね。
posted by juppo at 00:26| Comment(2) | TrackBack(3) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月02日

奥山に猫またといふものA

続きでーす。
〈本文〉
家々より、松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こはいかに。」とて川の中よりいだき起こしたれば、連歌の賭物取りて、扇・小箱など、ふところに持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。飼ひける犬の暗けれど、主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。

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〈juppo〉こんなオチでした。「幽霊の正体見たり・・」とか「疑心暗鬼」とか、ありがたいお言葉を地で行く坊さんの話でした。暗い中ご主人を見つけて飛びついた飼い犬がひたすら可愛くもあります。
posted by juppo at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月01日

奥山に猫またといふもの@

徒然草、第八十九段です。
〈本文〉
 「奥山に猫またといふものありて、人を食らふなる。」と、人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも猫の経(へ)あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」と言ふ者ありけるを、何阿弥陀物とかや、連歌しける法師の、行願寺のほとりにありけるが、聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜ふくるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り来て、やがてかきつくままに頸(くび)のほどを食はんとす。肝心も失せて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、「助けよや、猫また、よやよや。」と叫べば、

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〈juppo〉またしても中途半端なところでぶった切ってしまってスミマセン。法師の運命やいかに!?という引きになっています。
この物語で、特に難解なのは「連歌って何だ!?」ということかもしれません。連歌(「れんが」と読みます)というのは、平安時代から室町時代くらいに流行った歌詠みの形式で、二人以上で短歌の上の句・下の句を合作するというものから、五七五・七七の句をず〜っと繋げて長い歌を作る、なんてモノまであったそうです。俳句の句会に置き換えた方が現代では分かりやすいかも知れませんね。そういう事をみんなで集まってやっていた、と。それを職業にする人もいた、と。そういうことらしいです。この坊さんはそういうののプロだったらしいのです。良く分からなくても大丈夫です。それほど重要な情報ではないので。
posted by juppo at 23:50| Comment(10) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月31日

ある人、弓射ることを習ふに

徒然草、九十二段です。
〈本文〉
 ある人、弓射ることを習ふに、諸矢をたばさみて的にむかふ。師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ。」と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずと言へども、師これを知る。このいましめ、万事にわたるべし。
 道を学する人、夕(ゆふべ)には朝(あした)あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。いはんや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。何ぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだかたき。

yumiiru
posted by juppo at 23:13| Comment(6) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする