2009年12月07日

寺院の号

徒然草、第百十六段です。
〈本文〉
 寺院の号(な)、さらぬ万(よろづ)の物にも、名をつくること、昔の人は、少しも求めず、ただありのままに、やすくつけけるなり。この頃は、ふかく案じ、才覚をあらはさむとしたるやうに聞こゆる、いとむつかし。人の名も、めなれぬ文字をつかむとする、益(やく)なきことなり。
 何事も、めづらしきことをもとめ異説を好むは、浅才の人の必ずあることなりとぞ。

jiin.jpg〈juppo〉今回のお話はあまり教科書には載っていないかも知れません。実は2ちゃんねるで拾って来たネタです。


 今日見たニュースによると、2009年度赤ちゃんの名前ランキング(たまひよ調べ)第1位に輝いたのは、

 男の子 大翔(ひろと)
 女の子 凛(りん)

だそうです。

 ランキング一覧を見ると、私の世代では「なんて読むの?」と聞かれかねなかったような独特の読み方をする漢字の名前が並んでいるんですけど、読んでいるうちに傾向というか、流行りというか、だいたい似たパターンになっていることが分かります。

 この子たちが漢字を書けるようになるころには、それぞれの読み方が定着して、結構みんなありふれた名前になっているのかも知れないな、と思いました。


 それでも時々、「どうしてこんな名前にしたんだろう」とか「どうしてこの漢字を選んだんだろう」と首を傾げたくなる名前に遭遇することがあって(大抵ニュースで見るんですけど)、私には子どもの名前をつけた経験なんてないので偉そうなことは言えませんが、名前はやっぱり読みやすくて覚えやすいものの方がいいんじゃないかな、と思っていました。


 そういうことを、およそ七百年前に兼好さんも憂いていたのです。

 そんな昔から奇をてらった名前をつけたり、難解な漢字を使う人がいて、その傾向を「そんなことは才覚のある人のすることではない」と断言しているのが、快哉、でもあり面白くもあり、で今回この作品を紹介することにした訳です。



 実は私は5月に生まれる予定で、もし5月中に生まれていたら「さつき」という名前になる予定だったそうです。

 予定がずれ込んで6月に生まれたので、英語で6月はJuneだから、という理由で「純子」になったんです。
 そんなインテリなことをうちの両親がなぜ考え付いたのか不思議ですが、この命名理由は外国人にも理解されやすくて重宝しています。



 ところで、私には新体操をやっている大学生の姪がいます。
 その姪が明日の夜、TBSの『ホリさまぁ〜ず』という深夜番組に出演するそうです。

 12/8(火)25:05〜の放送です。さまぁ〜ずが大学に来て一緒に(?)新体操やったらしいです。
 興味のある方、毎週見てる、という方は是非ご覧ください。



 ちなみに姪は「柴田さん」じゃありません。
 長田侑里乃(おさだ ゆりの)といいます。どうぞよろしく。
posted by juppo at 20:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月22日

九月二十日のころ

リクエストにお応えします。徒然草、第三十二段です。
〈本文〉
 九月(ながつき)二十日のころ、ある人にさそはれたてまつりて、明くるまで月見ありくことはべりしに、おぼし出づる所ありて、案内させて入りたまひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひしめやかにうちかをりて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。よきほどにて出でたまひぬれど、なほ事ざまの優におぼえて、物のかくれより、しばし見いたるに、妻戸をいま少しおしあけて月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口惜しからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうのことは、ただ朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞きはべりし。

9/20.jpg〈juppo〉期末テストが近い方も多いと思いますが、寒いですねぇ。今年は新型インフルエンザの影響で、授業数が足りなかったり、テストの日程がずれ込んだり、中には羅患して生死の境をさまよった方もいるかと思うと、学生の皆さんにはさんざんな年になってしまいましたよね。

 でも期末が終われば冬休みですからね!!あともう少し、頑張ってください。


 今回は『徒然草』です。さらっと読めそうでいて、一読しただけでは何がなんだか分からない話ですよね。

 とにかく、古文にはありがちなんですけど主語がないので、「誰が、どうして、何を」しているのか、現代人にはさっぱり分からない文章になっているんですよ。


 マンガを見ていただくと何となく分かるかと思いますが、実はこれは恋の話なんですね。

 兼好さんを月見に誘った「ある人」が、ふと思い出した所というのは愛人宅で、彼氏は短い逢瀬を楽しんでテキトーに帰って行くのですが、その後で兼好さんがストーカーすれすれに物陰から彼女の行動をチェックしている、という場面なんです。
 一緒に愛人宅に来てる時点から「兼好さん、お邪魔じゃないのか?」なんて余計なことが気になってしまいます。


 「妻戸」というのは両開きの戸のことで、神殿造りの家屋に付けられていたそうです。

 帰って行く客をいつまでも見送る彼女の行動が、「そういう人もいる」と自分で知っていてする行動とは思えない、意識していないから出来ることなのだ、と兼好さんは感心してるんですね。



 まったく個人的な感想なんですけど、その、兼好さんがしみじみ感動した彼女の行動というのは、彼女がことさら風流だったからというより、「恋しているから」だと思いませんか?

 実際風流な女性だったのかも知れませんよ。でも、好きな人がいて、せっかく会えたのにすぐ帰ってしまったら、その人を見送っていつまでも外を見ているなんて、恋する女性なら自然に取る行動ではないでしょうか。

 女心は男が思うほどデジタルじゃないんですよ。その人の残像を目で追ったり、かかって来ない電話をじっと見つめちゃったり、なんて誰にでも経験のあることだと思います。

 そして彼の姿がもう見えなくなって、空には月があるばかり、だったら当然、月を見ますよね。


 そういう女性の態度が兼好さんの風流魂をゆさぶった作品なのでしょうが、描きながら私は「女心が分かってないな、兼好さん。」なんて思ってしまいました。

 
posted by juppo at 20:43| Comment(6) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月30日

仁和寺にある法師

リクエストにお応えしまーす。徒然草、第五十二段です。
〈本文〉
 仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石清水(いはしみづ)を拝まざりければ、心うくおぼえて、ある時思ひたちて、ただひとり、かちより詣(まう)でけり。極楽寺(ごくらくじ)・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、たふとくこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしきことなり。

ninnaji.jpg
〈juppo〉もうすっかり秋ですね。皆さんお元気ですか。
 10月は中間テストが始まったな、と思った途端に毎週誰かが中間テスト中で、対策授業に忙殺されていました。
 「二酸化炭素1モルの質量は44グラムで、標準状態での体積は22.4リットルで・・・」なんてことに情熱を注いでいました。


 『徒然草』はひとつひとつのエピソードがさくっと短くていいですね。
 そして今回のようにオチのある話が多いです。そのオチの意味が分からないよ、ということを除けば読みやすい作品です。

 極楽寺、高良神社は、石清水八幡宮の末社(まつしゃ)だそうです。末社とは本社に付属している神社のことだそうです。


 石清水八幡宮に参詣に行くのが目的だったのに、それ自体が山の上にあることを知らず、末社だけ見て「全部見た」と思い込んで帰って来てしまった坊さんの、マヌケさが笑いどころなんですね。
 
 これを読んですぐに「目的を果たしてないよー、坊さん。」と反応出来るためには、出て来る神社を、立地までよく知っていることが要求される訳ですが、兼好さんが書いた時の読者にとっては常識だったんでしょうね。
 今でも地元の皆さんには常識なんでしょうか。私にはさっぱりです。解説を読まなければ、「それのどこが面白いの?」と笑ってる人に聞いて回ることになってしまいそうです。

 誰にでもできそうな簡単なことでも、もっとよく知っている人がいるなら教えを乞うた方がいいよ、という教訓になっている話でした。
 新製品を購入したら、面倒でもやっぱり取説は読んだ方がいいよ、ということですね。


 やっと中間テストシーズンも終わりだな、と思ったのもつかの間、来月はもう期末テストをやる学校もあるんですね。2学期って忙しいですよね。

 そんな中、忙中閑あり、で今週、やっと、『BALLAD 名もなき恋のうた』を見て来ました。
 ・・まだ見てなかったんですよ。クサナギ君ファンなのに。
 そして、多分クサナギ君の映画でなければ見ないな、という程度の興味で見に行ったんですけど、思いのほかイイ映画でした。面白いです。しんちゃんありがとう、って感じです。
 皆さんも1度は見た方がいいですよ。2度も3度も 見なくてもいいですから。
posted by juppo at 20:56| Comment(17) | TrackBack(1) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月25日

丹波に、出雲といふ所ありA

後編をお届けします。
〈本文〉
おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官(じんくわん)を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、さだめて習ひあることにはべらん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ。さがなき童(わらは)べどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、すえ直して往(い)にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

tanba2.jpg〈juppo〉このブログには珍しく、立て続けに更新しています。残りはちょっとだけだったので。


 普通とは違う、背中合わせに立てられた狛犬の秘密とは、子どものいたずらだったのですね〜。そりゃー上人の涙も無駄泣きでしたよね〜。

 いったいどんな深い訳があるのだろうと期待していると、意外につまらない理由だった、ということと、なんでもありがたがって持ち上げるのはバカみたいだ、という部分に笑いどころがある訳なんですが、そんなことよりもまず、狛犬ってそんなに簡単に動かせるの?という感想を抱きませんか?

 ・・昔のことですからね。狛犬の像も今より簡素な造りで、軽かったのかも知れません。
 今でもそんなに軽かったら、動かせるどころか、持ち帰るヤカラが続出するでしょうね。


 皆さんも、公共物へのいたずらはくれぐれもお控えくださいね。勘違いしてありがたがって感涙にむせぶ人が出て来るかも知れませんからね。

 

 自動販売機の商品見本は、今でこそ本物を並べている訳じゃないことが一目瞭然になっていますが、昔、タバコの販売機の見本部分のガラスが壊されて、見本が全て持ち去られているのを見たことがあります。次に通った時、その販売機の見本には紙に字で銘柄を書いたものを並べてありましたが、名前が並んでいても、何がどの銘柄か一見さっぱり分からないものだな、と思ったものです。果たして、持ち去られた見本は本物のタバコだったのか、は知る由もありません。公共物は大切にしましょう。
posted by juppo at 23:37| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月24日

丹波に、出雲といふ所あり@

徒然草、第二百三十六段です。
〈本文〉
 丹波に出雲といふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかや知る所なれば、秋のころ、聖海上人(しゃうかいしゃうにん)、そのほかも人あまた誘ひて、「いざ、たまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させむ。」とて、具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。御前なる獅子(しし)・狛犬(こまいぬ)、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深きゆえあらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝(しゅしゃう)のことは御覧じとがめずや。むげなり。」と言へば、

tanba1.jpg〈juppo〉人間国宝・桂米朝師匠が、その著書『落語と私』の中で、「徒然草には、そのまま落語になるようなはなしがいくつも見られます」と紹介されていた作品です。長くはないのですが、2回で描きます。


 丹波の国というのは今の京都府です。
 え、出雲大社って、島根県にあるんじゃなかったっけ?とお思いの皆さん、私もそう思いましたが、ここに登場する出雲の神社とは「出雲大社」ではなく、京都府亀岡市にある「出雲大神宮」のことなんですって!勉強になりますねー。


 狛犬は神社に行くと大抵いる、あれのことですが、「獅子」は何だ?と思いますよね。

 狛犬の起源は、昔インドで仏像の両側にライオンの像を置いたのから来ているそうですが、それが日本まで伝わって来る間に、日本にはライオンがいませんから、「犬」の字を使って名付けたそうなんです。

 神社に向かって見た時、右側にいるのが阿形(あぎょう。「あ。」という口の形・・口を開けている)、左側にいるのが吽形(うんぎょう。「うん。」という口の形・・口を閉じている)だそうです。
 息の合ったコンビ芸などを「あうんの呼吸」といいますが、ここから来ています。

 そして、阿形の方には角がないのが普通で、吽形には1本角があり、角がないのが「獅子」、角ありを「狛犬」と呼び分け、合わせて「獅子・狛犬」と呼ぶのが厳密な呼び方なんだそうですよ。(Wikipediaより)
 日ごろ何気なく「狛犬」と思っていた彼らに、こんな識別があったとは。恐れ入りました。

 それで、その獅子・狛犬が背中合わせに立っていたのにはどんな秘密があるのか?というのが、後半のお話。米朝師匠言うところの「サゲ」であります。



 シルバーウィークもあっという間に終わってしまいましたね。私は、連休って何?くらいにフツーに仕事だったので、お買い物渋滞から解放されてホッとしています。
 
 そんな連休中に、やっと『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を見て来ました。なにもわざわざ連休中に行かなくても良かったと思うんですけど、うっかりしている間にもう打ち切り館続出で、字幕で見られる映画館を選んでいるうちに連休に見に行くことになった次第です。

 もう結末は分かってるんですけど、ハーマイオニーとウォン・ウォンのすれ違いが歯がゆくて、泣けて来ました。そこって泣くところ?と思いますが、ハーマイオニーがいじらしくて〜・・。
 原作を読んでいなかったら、ハーマイオニーはハリーを好きなんじゃないの?と思うかなぁ、なんて思いながら。
 昔、『あすなろ白書』をドラマだけ見て、「なるみは何で取手君を好きにならないの?取手君でいいじゃん!木村拓哉だし!」と思ったのを思い出しました。
posted by juppo at 21:14| Comment(2) | TrackBack(1) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

神無月のころ

リクエストにお応えします。徒然草、第十一段です。
〈本文〉
 神無月のころ、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入ることはべりしに、はるかなる苔(こけ)の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵(いほり)あり。木の葉に埋(うづ)もるる懸け樋(かけひ)の雫(しづく)ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子(かうじ)の木の、枝もたわわになりたるが、周りをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばとおぼえしか。

kannaduki.jpg
〈juppo〉神無月とは、皆さんご存じの通り、陰暦十月のことです。この月には全国の神様が出雲に集結するので、神のいない月とか言うんですよね。ですから出雲では神有月になるそうです。


 懸け樋というのは、地面に架け渡した樋(とい)のことです。
 
「つゆおとなふものなし」で「音がしない」と「訪れるものがいない」の二つの意味を表現しています。短い言葉でこれだけの意味を持たせていると思うと、日本語の奥深さをしみじみ感じますね。「かくてもあられけるよ」とともに、その音も好きです。声に出して読みたい日本語。

 みかんの木が素晴らしかったのに、周りを囲んでいる所に、その実を取られないようにとの持ち主の因業さが垣間見えて、イイ雰囲気が台なしだ、と結んでいます。がっかりですね。


 みかんといえば、大人になってからは、いちいち皮を剥いて食べるのが面倒くさくてあまり食べていなかったのですが、今年の私はひと味違う私になって、なんとみかんを自ら八百屋で買って食べています。
 みかんのおかげで今年はまだ風邪もひいていません。というのは多分見当違いかとも思いますが、皆さんもみかんを食べて厳しい冬を乗り切ってください。



posted by juppo at 23:17| Comment(14) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月05日

公世(きんよ)のニ位のせうとに

徒然草、第四十五段です。
〈本文〉
公世の二位のせうとに、良覚僧正(りゃうがくそうじゃう)と聞こえしは、きはめて腹あしき人なりけり。坊の傍らに、大きなる榎(え)の木ありければ、人、「榎の木の僧正」とぞ言ひける。この名、しかるべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡、大きなる堀にてありければ、「堀池(ほりけ)の僧正」とぞ言ひける。

kinyo.jpg
〈juppo〉今回のお話を読んで、こんな話が昔話にあったな、と思われた方もいらっしゃるかと思います。

 昔話に『頭に柿の木』という話があります。酔っぱらった男の頭に、いたずらな子どもが柿の種を飛ばしたところ、男の頭から柿の木が生えて来て、男は頭になった柿を売って酒を飲む。子どもが木を切ってしまうと、今度は切り株に出来たきのこを売って酒を飲む。切り株を掘ってしまうと、穴にたまった水にウナギが住んでそれを売って酒を飲む、という話です。

 落語にも『あたま山』というネタがあります。これは男の頭に桜の木が生える話で、抜いた穴に水がたまるのは同じです。

 これらの話に関連があるのかどうか分かりませんが、木を切れば切り株が出来、切り株を掘れば穴が出来るというのは自然な流れなので、物語にしやすい展開なのだということなのかも知れません。
 
 
 頭に木がどうやって根を張っているのかとか、穴があいているところを想像すると、ややホラーです。

 あだ名を付けられるくらいは、まだ罪がないといえましょう。
posted by juppo at 23:31| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月31日

吉田と申す馬乗り

徒然草、第百八十六段です。
〈本文〉
 吉田と申す馬乗りの申しはべりしは、「馬ごとにこはきものなり。人の力、争ふべからざると知るべし。乗るべき馬をば、まづよくみて、強きところ、弱きところを知るべし。次に轡(くつわ)・鞍(くら)の具に、危ふき事やあると見て心にかかる事あらば、その馬を馳(は)すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ秘蔵(ひさう)のことなり。」と申しき。

umanori.jpg
〈juppo〉寒いですねぇ。ホントに寒いです。皆さん風邪などひいてませんか?受験生の方もそうでない方も、健康には充分気をつけてくださいね。

 
 さて、おかげさまでこのブログは今日で一周年を迎えました。去年の今日、徒然草の『ある人、弓射ることを習ふに』をUPしたのがスタートだったので、一周年の今日は同じ徒然草で、同じような達人の教えシリーズで描いてみました。

 簡単なようで、やはり素人には分からないことを、その道に秀でた人だけは知っている、というテーマは徒然草によく見られます。読んでみると「何ごとも基本が大事」ってだけの事だったりするんですが、それだけの事でもやはり、極めてみないと分からない真理であったりするんですね。

 それだけの経験と実績を積んでいる人だけに、それを語ることが許されているのだ、という見方もあるかも知れません。

 どんなことでも、長く一途にやり続けるのは大変なことです。このブログも、出来るだけ長くコツコツと続けて行きたいなぁ〜、と一周年の区切りに気持ちを新たにする作品となりました。

 
 皆様、これからもよろしくお願いいたします。

posted by juppo at 22:02| Comment(3) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月14日

さしたる事なくてA

はいっ!続きです!
〈本文〉
心づきなきことあらん折は、なかなかそのよしをも言ひてん。
 同じ心に向かはまほしく思はん人の、つれづれにて、「いましばし。けふは心しづかに。」など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍(げんせき)が青き眼(まなこ)、たれもあるべきことなり。そのこととなきに、人の来たりてのどかに物語りして帰りぬる、いとよし。また、文(ふみ)も、「久しく聞こえさせねば。」などばかり言ひおこせたる、いとうれし。

sashitarukoto2.jpg
〈juppo〉用もないのに人の家に行くなよ、と言っていた前半から一転して、後半では用がなくてもゆったり話せる関係っていいよね、という内容になっています。「どっちやねん!」と突っ込みたくなるのはヤマヤマですが、前半と後半では、訪ねる間柄の親しさの度合いが違う、と考えてください。

 訪問する時の礼儀とか心配りはもちろん大事なんですけど、中にはそんなこと気にせず付き合える親友もいて(気の置けない仲ってヤツですね)、そういう間柄の友となら建て前なしに語り合えるし、「ご無沙汰」の一言で分かり合える。そういうの、イイでしょっ?って話です。

 1行目の「なかなか」は、もともと「中途半端な」という意味でしたが、いつしか意味が逆転して「中途半端は良くない」→「かえって」という意味で使われています。「ヤバい」が本来の「良くない状況だ」という意味から「ものスゴクいい」という意味に変わって来たような、そんな日本語の揺れは常にあるのですね。


 阮籍は、むかし中国にいた偉い人で、漫画に描いたように青い眼と白い眼を使い分ける事が出来たのだそうです。この人が気に入らない人を白い眼で睨んだ事から、「白眼視」という言葉が出来ました。本当ですよ。


 阮籍のような超人的な力がなくても、その人の表情を見て自分が歓迎されているかどうかが分かるはずだ、ということなんです。「たれもあるべき」というのは。

 要するに大事なことは、「空気を読めよ!」ってことですよね。こんな表現があるのも、本音と建て前文化の日本ならではだと思いませんか。
posted by juppo at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月10日

さしたる事なくて@

徒然草、第一七〇段です。
〈本文〉
 さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬことなり。用ありて行きたりとも、そのことはてなば、とく帰るべし。久しくいたる、いとむつかし。
 人と向かひたれば、詞(ことば)おほく、身もくたびれ、心もしづかならず、よろづのことさはりて時を移す、互ひのため益なし。いとはしげに言はんもわろし。

sashitarukoto1.jpg
〈juppo〉最近流行りの、『○○の品格』みたいな話です。そんなに長くないんですけど、2回に分けます。
 日本人は「本音」と「建て前」を使い分ける民族なので、相手の気持ちを測るのは大変難しいのですね。でも、相手を思いやるからこそ「建て前」文化が発達したので、そのこと自体は決して悪いことではないし、むしろ誇っていいと私は思います。
 
 私自身は相手の「本音」を読むのが本当〜に苦手で、いつも言われたことを額面通りに受け取って失敗ばっかりしてるんですけど。
 
 人はなかなか「本音」を言わないのだから、訪ねていく時はこういったことに注意しましょう、というマナー本のようなお話です。続きは近日中に。
posted by juppo at 22:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月18日

雪のおもしろう降りたりし朝

徒然草、第三十一段です。
〈本文〉
 雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事(かへりごと)に、「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人のおほせらるる事、聞きいるべきかは。かへすがへす口をしき御心なり。」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。

yuki.jpg
〈juppo〉寒くなったので雪の話です。関東地方では当分雪が降る気配はありませんが、日に日に寒くなりますね。今日はマフラー巻いて来ました。手袋もそろそろ出さなければ。

 このお話で読み取りたいことは、「手紙には時候の挨拶を忘れずに」「いつでも風流な人間でいよう」「亡くなった人の些細なセリフが忘れられない」というようなことです。

 日頃用件しか書かない携帯メールでも、書くことがないと敢えて「今日寒いね」なんて書いてしまう私たち日本人のDNAには間違いなく、兼好法師のそれと同じものが流れているのですね。

 降った雪がどうか、なんてことは「ハッキリ言ってどうでもいい。寒いだけ。」としか思えないとしても。
posted by juppo at 21:51| Comment(4) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月08日

法顕三蔵の、天竺に渡りて

徒然草、第八十四段です。
〈本文〉
 法顕三蔵(ほっけんさんざう)の、天竺(てんぢく)に渡りて、故郷(ふるさと)の扇(あふぎ)を見ては悲しび、病に臥しては漢の食(じき)を願ひたまひける事を聞きて、「さばかりの人の、むげにこそ心弱きけしきを、人の国にて見えたまひけれ。」と人の言ひしに、弘融僧都(こうゆうそうづ)、「優(いう)に情(なさけ)ありける三蔵かな。」と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくく覚えしか。

hokken.jpg
〈juppo〉
修行を積んだ僧ならば、世俗のことなどに超越している筈なのに、故郷を思ってメソメソ・ウジウジする様子が意外だ、と言う人に「そんな人間くさいところがいいじゃないか」と言った弘融さんもまた、ニクイ人だ、という話です。弘融僧都は兼好さんの知り合いだった人のようです。


 某8チャンネルが夏じゅう「なまか、なまか」とキャンペーンしてたあの映画に、今ごろ便乗してみました。

 便乗しておいてこんなことを言うのもナンですが、実は、『西遊記』の三蔵法師と、ここに登場する法顕三蔵は、別人です。

 『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵は、629年から16年かけて天竺(今のインド)にお経を取りに行った人ですが、法顕三蔵はそれに先んずること2世紀、399年から13年かけて天竺を旅しました。「三蔵」という言葉は3種類のお経を指し、それらに通じた偉いお坊さんの事を「三蔵法師」と呼んだのだそうです。まぁそんな訳で法顕三蔵は別にサルやブタやカッパと旅をした訳ではないんですけどね。それは玄奘三蔵も同じな訳ですから。イメージで読んでください。

 ところで、皆さんにとって三蔵法師といえば、やはり深津絵里なのでしょうか。
 私にとって、三蔵法師といえば、深津絵里でも夏目雅子でも、ましてやいかりや長介の人形でもなく、1967年に虫プロが製作したアニメ『悟空の大冒険』の、三蔵法師です。
 偉いお坊さんの筈なのに、ピンクの腰巻きをチラチラさせながら、野沢那智の声で「あーれぇ〜」とか「悟空やぁ〜」とか言っていた、思えば気弱さ全開のお師匠さんだった、あの三蔵法師のイメージは大です。
 ここで描いている古文の漫画でも、「僧」はもれなく「坊さん」と訳してしまうのには、あの悟空の影響があるのかも知れません。恐るべし、幼時体験。
posted by juppo at 23:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月20日

高名の木登り

徒然草、第百九段です。
〈本文〉
 高名の木登りといひし男(をのこ)、人をおきてて、高き木に登せて梢(こずえ)を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに、軒たけばかりになりて、「過ちすな。心して降りよ。」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」と申し侍りしかば、「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、おのれが恐れ侍れば、申さず。過ちは、やすき所になりて、必ずつかまつることに候ふ。」と言ふ。
 あやしき下臈(げらふ)なれども、聖人(しゃうにん)の戒めにかなへり。まりも、難き所を蹴いだしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。


kinobori.jpg
〈juppo〉暑いですね。暑いというだけで、何もする気にならないのは何故でしょう。大鏡をUPしてから「次は何を描こうかな〜。」とずっと考えていた結果、さくっと短いものにさせていただきました。
 「失敗は簡単な所で犯してしまう」というのは全くそのとおり、としか言い様のないお言葉です。簡単な所、すっかり慣れたところで失敗する例はあらゆる所に発見出来ます。
 ところで本文の「まり」は「蹴鞠(けまり)」のことで、蹴鞠というのは昔の貴族の遊びで「何人かで丸くなってリフティングをし合い、落としたら負け」というルールですから、「落とす」というのは文字どおり「地面にボールを落とす」という意味です。面白いからサッカーにしてしまいましたが、蹴鞠とサッカーは違います。言うまでもないですか?
 面白いから、で描いた最後のコマですけど、「ドーハの悲劇」ってもう15年前くらいの出来事ですよね。
posted by juppo at 22:28| Comment(34) | TrackBack(1) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月22日

相模の守時頼の母は

徒然草、第百八十四段です。
〈本文〉
 相模の守(かみ)時頼の母は、松下の禅尼(ぜんに)とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、すすけたる明り障子の破ればかりを、禅尼手づから、小刀して切り回しつつ張られければ、兄(せうと)の城の介義景(よしかげ)、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりてなにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候。」と申されければ、「その男、尼が細工によもまさりはべらじ。」とて、なほ一間づつ張られけるを、義景、「皆を張りかへんは、はるかにたやすく候ふべし。まだらに候ふも見ぐるしくや。」と重ねて申されければ、「尼も後はさはさはと張りかへんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理(しゅり)して用いる事ぞと、若き人に見ならはせて心つけんためなり。」と申されける。いとありがたかりけり。
 世を治むる道、倹約を本とす。女性(にょしゃう)なれども聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を、子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。

sagaminokami.jpg
〈juppo〉エコです。エコライフ。後で張り替えるとは言ってますが。ついでに、「女性なれども聖人の心に通へり」とはあからさまに女性蔑視な気もします。
ところで、皆さんの家には障子はありますか?私の家にはありますが、今これを書いている部屋(塾で借りているマンション)にはありません。自宅にある障子も昔のように張り替える作業をそんなにしなくなりました。こうして漫画で表しても「一体この尼は何をやっているのだ?」という事が容易には分からなくなる時代が来るのでしょうね。もっとも七百年も前のことですから、絵にしただけで多少分かりやすくなる方が貴重です。日本の家屋と障子とは、本当に長年相性が良かったのですね。
posted by juppo at 00:26| Comment(2) | TrackBack(3) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月02日

奥山に猫またといふものA

続きでーす。
〈本文〉
家々より、松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こはいかに。」とて川の中よりいだき起こしたれば、連歌の賭物取りて、扇・小箱など、ふところに持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。飼ひける犬の暗けれど、主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。

nekomata2.jpg
〈juppo〉こんなオチでした。「幽霊の正体見たり・・」とか「疑心暗鬼」とか、ありがたいお言葉を地で行く坊さんの話でした。暗い中ご主人を見つけて飛びついた飼い犬がひたすら可愛くもあります。
posted by juppo at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月01日

奥山に猫またといふもの@

徒然草、第八十九段です。
〈本文〉
 「奥山に猫またといふものありて、人を食らふなる。」と、人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも猫の経(へ)あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」と言ふ者ありけるを、何阿弥陀物とかや、連歌しける法師の、行願寺のほとりにありけるが、聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜ふくるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り来て、やがてかきつくままに頸(くび)のほどを食はんとす。肝心も失せて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、「助けよや、猫また、よやよや。」と叫べば、

nekomata1.jpg

〈juppo〉またしても中途半端なところでぶった切ってしまってスミマセン。法師の運命やいかに!?という引きになっています。
この物語で、特に難解なのは「連歌って何だ!?」ということかもしれません。連歌(「れんが」と読みます)というのは、平安時代から室町時代くらいに流行った歌詠みの形式で、二人以上で短歌の上の句・下の句を合作するというものから、五七五・七七の句をず〜っと繋げて長い歌を作る、なんてモノまであったそうです。俳句の句会に置き換えた方が現代では分かりやすいかも知れませんね。そういう事をみんなで集まってやっていた、と。それを職業にする人もいた、と。そういうことらしいです。この坊さんはそういうののプロだったらしいのです。良く分からなくても大丈夫です。それほど重要な情報ではないので。
posted by juppo at 23:50| Comment(10) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月31日

ある人、弓射ることを習ふに

徒然草、九十二段です。
〈本文〉
 ある人、弓射ることを習ふに、諸矢をたばさみて的にむかふ。師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ。」と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずと言へども、師これを知る。このいましめ、万事にわたるべし。
 道を学する人、夕(ゆふべ)には朝(あした)あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。いはんや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。何ぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだかたき。

yumiiru
posted by juppo at 23:13| Comment(9) | TrackBack(0) | 徒然草 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする