いよいよ最終回でーす。ちょっとですけど。
〈本文〉
昨日の裏板にもののすすけて、見ゆる所のありければ、はしに上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、この大臣(おとど)、筑紫におはしまして、延喜(えんぎ)三年癸(みづのと)亥(ゐ)二月二十五日にうせたまひしぞかし、御年五十九にて。
〈juppo〉怖いですね〜。まさかこんな後日談が付いていたとは。左遷に関わる陰謀にこれぽっちも関わっていなさそうな、大工の皆さんは無関係に肝を潰すことになってお気の毒としか言いようがありません。
このエピソードはいかにも取ってつけたフィクションの匂いふんぷんではありますが、この後の史実を追うとそんな脚色もしたくなる不幸がどんどん続きます。
道真さんが亡くなった延喜三年は西暦で903年です。その後、
909年 左大臣藤原時平 死亡 39歳
その前年、一味と言われる藤原菅根も死亡
908〜910年 疫病、干ばつが続き、道真の怨霊説が持ち上がる
923年 3月21日 醍醐天皇の息子、保明親王 死亡 21歳
4月20日 天皇が道真に右大臣の位を復任、道真左遷の辞令を破棄。さらに改元。この年、延長元年となる。
925年 保明親王の息子、慶頼王 死亡 5歳
930年 6月雨が降らず雨乞いを行うと、清涼殿の上に暗雲立ち込め雷鳴轟き落雷。大納言藤原清貫が即死および右中弁平希世の顔を焼く。
醍醐天皇は病気になり、9月に朱雀天皇に譲位。10月死亡。
昔はそれほど人の寿命が長くはなかったことでしょうが、道真さん本人が不遇の中59歳まで生きたのに比べると、初回に出てきた時平さんは早死にです。
自然災害まで祟りかというのは非科学的な面もありますが、後ろ暗い思いの方々には自責の念を拭いきれない災難の連続ですね。天皇は自責のあまり道真さんの死去から20年後に、その地位回復を図ったようですが、怨霊道真の怒りは収まらず・・な話題で世間は持ちきりだったんでしょうね〜。
ちなみに、落雷で即死した藤原清貫という人は、在原業平の孫です。
そんな恐い目に遭わせた神様の道真さんですが、前にも書いたように相当な文才・詩才があり、政治にも手腕を発揮した秀才中の秀才だったようです。今では祟り(?)の数々は忘れ去られて、全国の受験生の強い味方です。合格した暁には、是非お礼参りを。
今回の資料としてこちらを図書館で借りて読みました。
「大鏡」の次は漢詩です。多分。できれば年内に。
2023年12月18日
2023年12月11日
道真左遷F
腹巻きは編み上がりました。続けてマフラーを編んでいます。続きです。
〈本文〉
やがてかしこにてうせたまへる、夜(よ)のうちに、この北野にそこらの松をおほしたまひて、わたり住みたまふをこそは、ただいまの北野の宮と申して、荒人神(あらひとがみ)におはしますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめたまふ。いとかしこくあがめたてまつりたまふめり。筑紫のおはしまし所は安楽寺jといひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などさせたまひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けてたびたび造らせたまふに、円融院の御時の異なり、工(たくみ)ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出でつつ、またの朝(あした)にまゐりて見るに、
〈juppo〉別にマフラーなんて敢えて編まずとも何本もあるんですけどね。始めると続けたくなる編み物です。眠気覚ましにいいです。手指を動かすと脳が活性化するのだと思います。
さていよいよクライマックスです。何しろもう道真さんは亡くなってしまいました。亡くなった夜のうちに筑紫から京まで来たというんですが、根拠は?見たの?と、問いただしたくなりますよね。
とにかく京にも祀って筑紫でも祀って、代々の帝もありがたがってお参りしたり普請したりしています。別当は大きな寺の上位にいる長官で、所司は寺の仕事を司るお坊さんだそうです。
荒人神は、現人神とは違います。どちらも「あらひとがみ」と読みますが、「荒人神」は霊験あらたかで、遠慮なく姿を現して威力を見せつける神様だそうです。結構強い神様ですね。「現人神」は人の姿に身を写した神様ですよね。
そんなわけで、亡くなった途端に有難がられている道真公です。そうなったのにはいろいろと事情があります。次回、衝撃の最終回にて、その辺の事情を。近いうちに。
〈本文〉
やがてかしこにてうせたまへる、夜(よ)のうちに、この北野にそこらの松をおほしたまひて、わたり住みたまふをこそは、ただいまの北野の宮と申して、荒人神(あらひとがみ)におはしますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめたまふ。いとかしこくあがめたてまつりたまふめり。筑紫のおはしまし所は安楽寺jといひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などさせたまひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けてたびたび造らせたまふに、円融院の御時の異なり、工(たくみ)ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出でつつ、またの朝(あした)にまゐりて見るに、
〈juppo〉別にマフラーなんて敢えて編まずとも何本もあるんですけどね。始めると続けたくなる編み物です。眠気覚ましにいいです。手指を動かすと脳が活性化するのだと思います。
さていよいよクライマックスです。何しろもう道真さんは亡くなってしまいました。亡くなった夜のうちに筑紫から京まで来たというんですが、根拠は?見たの?と、問いただしたくなりますよね。
とにかく京にも祀って筑紫でも祀って、代々の帝もありがたがってお参りしたり普請したりしています。別当は大きな寺の上位にいる長官で、所司は寺の仕事を司るお坊さんだそうです。
荒人神は、現人神とは違います。どちらも「あらひとがみ」と読みますが、「荒人神」は霊験あらたかで、遠慮なく姿を現して威力を見せつける神様だそうです。結構強い神様ですね。「現人神」は人の姿に身を写した神様ですよね。
そんなわけで、亡くなった途端に有難がられている道真公です。そうなったのにはいろいろと事情があります。次回、衝撃の最終回にて、その辺の事情を。近いうちに。
2023年12月04日
道真左遷E
寒くなったので、腹巻きでも編もうかなと考えています。続きです。
〈本文〉
この詩、いとかしこく人々感じまうされきこのことどもただちりぢりになるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせたまへりけるを、書きて一巻(ひとまき)とせしめたまひて、後集(ごしふ)と名づけられたり。また折々の歌書きおかせたまへりけるを、おのづから世に散り聞えしなり。世継若うはべりしかば、大学の衆どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうのもの調(てう)じて、うち具してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、みなこそ、忘れはべりにけれ。これはただすこぶる覚えはべるなり」
といへば、聞く人々、
「げにげに、いみじき好き者にもものしたまひけるかな。今の人は、さる心ありなむや」
など、感じあへり。
「また、雨の降る日、うちながめたまひて、
あめのしたかわけるほどのなければや着てし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき
〈juppo〉編み物というと昔は連立方程式を駆使してゲージを取り、真面目に取り組んでいた頃もありましたが、年齢を重ねるにつれてただまっすぐ編む物しか作らなくなりました。
今回は世継さんも若い頃を回想しています。若い頃といっても、ここで語っている時点で190歳らしいので、この道真さんの一連の出来事はおよそ40年くらい過去を語っていますがその頃すでに充分じじいだと思われます。
その頃道真さんの境遇を耳にして大いに同情し、学のある人のところに行って道真作の詩や歌を仕入れたというわけです。
ただ学があるだけでなく、不合であることが肝心です。不合は豊かでないさま、餌袋や破子は食べ物を入れる袋や容器です。そういう人に近づいて食事をエサに、いや授業料にして、勉強させてもらったのですね。
聞いている人たちもその姿勢に感心しきりです。「今の人」にはそんな熱心さはない、というのが1000年くらい昔の人たちの感想です。
世継は、老いのせいで「忘れはべり」とかなんとか言っていますが、本心でしょうか。謙遜でしょうか。謙遜に粉飾した自慢に聞こえなくもありません。
世継のリサイタルが続いております。実は道真さんの出番はもうあまりないんです。お話はあとちょっとあります。編み物を始めて夢中になり、更新に影響しないよう気をつけます。
〈本文〉
この詩、いとかしこく人々感じまうされきこのことどもただちりぢりになるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせたまへりけるを、書きて一巻(ひとまき)とせしめたまひて、後集(ごしふ)と名づけられたり。また折々の歌書きおかせたまへりけるを、おのづから世に散り聞えしなり。世継若うはべりしかば、大学の衆どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうのもの調(てう)じて、うち具してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、みなこそ、忘れはべりにけれ。これはただすこぶる覚えはべるなり」
といへば、聞く人々、
「げにげに、いみじき好き者にもものしたまひけるかな。今の人は、さる心ありなむや」
など、感じあへり。
「また、雨の降る日、うちながめたまひて、
あめのしたかわけるほどのなければや着てし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき
〈juppo〉編み物というと昔は連立方程式を駆使してゲージを取り、真面目に取り組んでいた頃もありましたが、年齢を重ねるにつれてただまっすぐ編む物しか作らなくなりました。
今回は世継さんも若い頃を回想しています。若い頃といっても、ここで語っている時点で190歳らしいので、この道真さんの一連の出来事はおよそ40年くらい過去を語っていますがその頃すでに充分じじいだと思われます。
その頃道真さんの境遇を耳にして大いに同情し、学のある人のところに行って道真作の詩や歌を仕入れたというわけです。
ただ学があるだけでなく、不合であることが肝心です。不合は豊かでないさま、餌袋や破子は食べ物を入れる袋や容器です。そういう人に近づいて食事をエサに、いや授業料にして、勉強させてもらったのですね。
聞いている人たちもその姿勢に感心しきりです。「今の人」にはそんな熱心さはない、というのが1000年くらい昔の人たちの感想です。
世継は、老いのせいで「忘れはべり」とかなんとか言っていますが、本心でしょうか。謙遜でしょうか。謙遜に粉飾した自慢に聞こえなくもありません。
世継のリサイタルが続いております。実は道真さんの出番はもうあまりないんです。お話はあとちょっとあります。編み物を始めて夢中になり、更新に影響しないよう気をつけます。
2023年11月27日
道真左遷D
急にもの凄く寒いです。かつくしゃみが止まらないのはすでにスギ花粉の気配です。続きです。
〈本文〉
鐘の音を聞き召して、作らせたまへる詩ぞかし。
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)二瓦ノ色ヲ看ル
観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴ク
これは、文集(もんじふ)の、白居易の「遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ枕ヲ欹(そばだ)テテ聴キ、香炉峯(こうろほう)ノ雪ハ簾(すだれ)ヲ撥(かかげ)テ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏にて菊の宴ありしに、この大臣(おとど)の作らせたまひける詩を、帝かしこく感じたまひて、御衣(おんぞ)たまはりたまへりしを、筑紫に持て下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召し出でて、作らしめたまひける、
去年今夜侍清涼
秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香
去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)二侍リキ
秋思(しうし)ノ詩篇独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)ツ
恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)今此(ここ)二在(あ)リ
捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル
〈juppo〉さてさて、涙無くしては読めない展開になってきた道真さんの筑紫生活です。何を見てもため息な日々です。それでも有り余る才能が詩を作らせてしまい、その詩がいちいち素晴らしいと。
「白氏文集」は白居易の詩を集めたもので、白居易は中国の詩人です。またの名を白楽天。「香炉峰の雪」といえば「枕草子」でもネタにされていましたね。ここではその詩を意識していながら、オリジナルを超えてんじゃん!てな評価のようです。
九月九日は重陽の節句で、宮中では菊を見る宴を催していたんですね。ご褒美に着物をいただくというのも、他の作品で見ました。清涼殿は帝のお住まいです。いただいた着物の残り香は、何の香りでしょう。帝が炊いていた香の香りなんでしょうね。おそらく。
別れたり、亡くしたりしてもう会えない人の、衣服や何かの香りから思い出が止まらなくなっちゃうことって、ありますよね。良いことも悪いことも、嗅覚と記憶はかなり強く結びついているんですよね。
この境遇にあってこの詩作の才。伝説になるには充分ですが、さらに神になってしまうまで、もう少しです。以下次号。
〈本文〉
鐘の音を聞き召して、作らせたまへる詩ぞかし。
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)二瓦ノ色ヲ看ル
観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴ク
これは、文集(もんじふ)の、白居易の「遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ枕ヲ欹(そばだ)テテ聴キ、香炉峯(こうろほう)ノ雪ハ簾(すだれ)ヲ撥(かかげ)テ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏にて菊の宴ありしに、この大臣(おとど)の作らせたまひける詩を、帝かしこく感じたまひて、御衣(おんぞ)たまはりたまへりしを、筑紫に持て下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召し出でて、作らしめたまひける、
去年今夜侍清涼
秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香
去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)二侍リキ
秋思(しうし)ノ詩篇独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)ツ
恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)今此(ここ)二在(あ)リ
捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル
〈juppo〉さてさて、涙無くしては読めない展開になってきた道真さんの筑紫生活です。何を見てもため息な日々です。それでも有り余る才能が詩を作らせてしまい、その詩がいちいち素晴らしいと。
「白氏文集」は白居易の詩を集めたもので、白居易は中国の詩人です。またの名を白楽天。「香炉峰の雪」といえば「枕草子」でもネタにされていましたね。ここではその詩を意識していながら、オリジナルを超えてんじゃん!てな評価のようです。
九月九日は重陽の節句で、宮中では菊を見る宴を催していたんですね。ご褒美に着物をいただくというのも、他の作品で見ました。清涼殿は帝のお住まいです。いただいた着物の残り香は、何の香りでしょう。帝が炊いていた香の香りなんでしょうね。おそらく。
別れたり、亡くしたりしてもう会えない人の、衣服や何かの香りから思い出が止まらなくなっちゃうことって、ありますよね。良いことも悪いことも、嗅覚と記憶はかなり強く結びついているんですよね。
この境遇にあってこの詩作の才。伝説になるには充分ですが、さらに神になってしまうまで、もう少しです。以下次号。
2023年11月21日
道真左遷C
朝晩すっかり寒くなりました。まだ日中は汗ばんだりもするんですけどね。寒暖差に負けないよう、踏みとどまっています。続きです。
〈本文〉
月のあかき夜(よ)、
海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日(つきひ)こそは照らしたまはめとこそはあめれ」
まことに、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしういひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。もののゆゑ知りたる人なども、むげに近く居(ゐ)寄りて外目(ほかめ)せず、見聞くけしきどもを見て、いよいよはえてものを繰り出(いだ)すやうにいひつづくるほどぞ、まことに希有(けう)なるや。繁樹、涙をのごひつつ興(きよう)じゐたり。
「筑紫におはします所の御門(かど)かためておはします。大弐(だいに)の居所(ゐどころ)は遥かなれども、楼(ろう)の上の瓦(かはら)などの心にもあらず御覧じやられけるに、またいと近く観音寺(くわんおんじ)といふ寺のありければ、
〈juppo〉筑紫での道真さんの様子が語られ始めますが、ほぼ詠んだ歌や詩で構成されています。そして今回から、やにわに世継が脚光を浴びてワンマンショー状態になっています。
道長が書いたものが残っているのでそれらを組み立てて書かれた物語なんですよね。そこここに脚色も入っています。前回、駅長に詠んだ詩がありましたが、あれも後付けらしいです。明石の駅長と親しかったところまでは事実ですが、あの詩のような境地にその時道長が達していたかどうかは疑わしいと。駅長を励ますどころではなかったのでしょうか。
失意のどん底にいるばかりでなく、左遷されてからはあまり良い生活を送れなかったようなので、今回から着衣が少しくたびれた感じになってもらいました。
世継の爺さんは相当年をとっているだけあって博識で、昔のことを逐一正確に覚えていて語る人なんですね。話も上手くて、聴衆を惹きつける人気者のようです。「おどろおどろしき」とは恐ろしいということではなく、おおげさなという意味です。
聞き手の中に突如登場した繁樹、この爺さんも「雲林院の菩提講」に出ていた人です。夏山といえば繁樹、と名付けられた人でした。
安楽寺は筑紫での道長の住まいで、大弐とは大宰府の役人の偉い人らしいです。「大弐の居所」イコール「大宰府」なんですね。この時の大弐が藤原興範という人だったというだけで、その人は出てきません。
次回以降も、聞けば聞くほどお気の毒な道真さんの身の上を、世継が面白おかしく語ります。お楽しみに。
〈本文〉
月のあかき夜(よ)、
海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日(つきひ)こそは照らしたまはめとこそはあめれ」
まことに、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしういひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。もののゆゑ知りたる人なども、むげに近く居(ゐ)寄りて外目(ほかめ)せず、見聞くけしきどもを見て、いよいよはえてものを繰り出(いだ)すやうにいひつづくるほどぞ、まことに希有(けう)なるや。繁樹、涙をのごひつつ興(きよう)じゐたり。
「筑紫におはします所の御門(かど)かためておはします。大弐(だいに)の居所(ゐどころ)は遥かなれども、楼(ろう)の上の瓦(かはら)などの心にもあらず御覧じやられけるに、またいと近く観音寺(くわんおんじ)といふ寺のありければ、
〈juppo〉筑紫での道真さんの様子が語られ始めますが、ほぼ詠んだ歌や詩で構成されています。そして今回から、やにわに世継が脚光を浴びてワンマンショー状態になっています。
道長が書いたものが残っているのでそれらを組み立てて書かれた物語なんですよね。そこここに脚色も入っています。前回、駅長に詠んだ詩がありましたが、あれも後付けらしいです。明石の駅長と親しかったところまでは事実ですが、あの詩のような境地にその時道長が達していたかどうかは疑わしいと。駅長を励ますどころではなかったのでしょうか。
失意のどん底にいるばかりでなく、左遷されてからはあまり良い生活を送れなかったようなので、今回から着衣が少しくたびれた感じになってもらいました。
世継の爺さんは相当年をとっているだけあって博識で、昔のことを逐一正確に覚えていて語る人なんですね。話も上手くて、聴衆を惹きつける人気者のようです。「おどろおどろしき」とは恐ろしいということではなく、おおげさなという意味です。
聞き手の中に突如登場した繁樹、この爺さんも「雲林院の菩提講」に出ていた人です。夏山といえば繁樹、と名付けられた人でした。
安楽寺は筑紫での道長の住まいで、大弐とは大宰府の役人の偉い人らしいです。「大弐の居所」イコール「大宰府」なんですね。この時の大弐が藤原興範という人だったというだけで、その人は出てきません。
次回以降も、聞けば聞くほどお気の毒な道真さんの身の上を、世継が面白おかしく語ります。お楽しみに。
2023年11月13日
道真左遷B
順調に第三回ですが、先は長いです。続きです。
〈本文〉
都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思されて、
君が住む宿のこずゑをゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや
また、播磨国(はりまのくに)におはしましつきて、明石の駅(むまや)といふ所に御宿りせしめたまひて、駅の長(をさ)のいみじく思へるけしきを御覧じて、作らしめたまふ詩、いとかなし。
駅長莫驚時変改
一栄一落是春秋
駅長(えきちやう)驚クコトナカレ、時ノ変改(へんがい)
一栄一落(いつえいいつらく)是(こ)レ春秋(しゆんじう)
かくて筑紫におはしつきて、ものをあはれに心ぼそく思さるる夕(ゆふべ)、をちかたに所々(ところどころ)煙(けぶり)立つを御覧じて、
夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼まれぬ
さりともと、世を思し召されけるなるべし。
〈juppo〉前回、山崎てところで出家した道真さんを描きましたが、その時にも書いたように出家したかどうかは不明なようなので、元の姿に戻ってもらいました。
ここからいよいよ都を追われる悲しさ寂しさ全開の道真さんになっていくのですが、筑紫まで一人旅をしているわけではないんですよ。朝廷の命令による移動ですからついて来る役人もいるし、前にも言いましたが小さい子どもたちは連れてってるんです。ただ少なくとも楽しい旅路ではなかったでしょうから、敢えてそうしたわけでもないですが、道真さんがトボトボ行くような絵になりました。
そんなことより駅長ですよね。駅と言ってももちろん鉄道の駅ではありません。「むまや」と読みますし。
昔は遠出には馬に乗りましたので、程よい距離ごとに馬を繋いで泊まる「駅」があったのですね。そこを管理している人です。その人がどんな風体だったかわからなかったので、面白いから駅長さんになってもらいました。フィクションですよ。念のため。
道真さんは何か思うたびに歌を詠んでいますが、漢詩も作っています。「詩」と言っているのは全て漢詩です。
折々詠んだ歌や詩は、のちにまとめられて現在まで残っているのですが、大臣をしていた頃に書いた文書なども残っているんですね。とにかくたくさん書く方だったようです。さすが学問の神。
1コマ目で詠んでいる歌の「君が住む」の「君」とは、道真と信頼で結ばれていた宇多法王のこと、という説と奥さんだとする説があるそうですが、ふり返りふり返り見ちゃうんだからやっぱり奥さんかな、と思いました。
どちらにせよ、そんな気持ちで旅立つなんて、寂しい道のりですね。駅長さんには励ますように事の道理を説いていた道真さんも、夕方になったり、ふと空を見たりすると、いろいろ思い出して切なくなってしまうのですね。単に寂しいだけでなく、納得できない我が身の上の不遇への嘆きも、そこにはあるわけですからねー。
〈本文〉
都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思されて、
君が住む宿のこずゑをゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや
また、播磨国(はりまのくに)におはしましつきて、明石の駅(むまや)といふ所に御宿りせしめたまひて、駅の長(をさ)のいみじく思へるけしきを御覧じて、作らしめたまふ詩、いとかなし。
駅長莫驚時変改
一栄一落是春秋
駅長(えきちやう)驚クコトナカレ、時ノ変改(へんがい)
一栄一落(いつえいいつらく)是(こ)レ春秋(しゆんじう)
かくて筑紫におはしつきて、ものをあはれに心ぼそく思さるる夕(ゆふべ)、をちかたに所々(ところどころ)煙(けぶり)立つを御覧じて、
夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼まれぬ
さりともと、世を思し召されけるなるべし。
〈juppo〉前回、山崎てところで出家した道真さんを描きましたが、その時にも書いたように出家したかどうかは不明なようなので、元の姿に戻ってもらいました。
ここからいよいよ都を追われる悲しさ寂しさ全開の道真さんになっていくのですが、筑紫まで一人旅をしているわけではないんですよ。朝廷の命令による移動ですからついて来る役人もいるし、前にも言いましたが小さい子どもたちは連れてってるんです。ただ少なくとも楽しい旅路ではなかったでしょうから、敢えてそうしたわけでもないですが、道真さんがトボトボ行くような絵になりました。
そんなことより駅長ですよね。駅と言ってももちろん鉄道の駅ではありません。「むまや」と読みますし。
昔は遠出には馬に乗りましたので、程よい距離ごとに馬を繋いで泊まる「駅」があったのですね。そこを管理している人です。その人がどんな風体だったかわからなかったので、面白いから駅長さんになってもらいました。フィクションですよ。念のため。
道真さんは何か思うたびに歌を詠んでいますが、漢詩も作っています。「詩」と言っているのは全て漢詩です。
折々詠んだ歌や詩は、のちにまとめられて現在まで残っているのですが、大臣をしていた頃に書いた文書なども残っているんですね。とにかくたくさん書く方だったようです。さすが学問の神。
1コマ目で詠んでいる歌の「君が住む」の「君」とは、道真と信頼で結ばれていた宇多法王のこと、という説と奥さんだとする説があるそうですが、ふり返りふり返り見ちゃうんだからやっぱり奥さんかな、と思いました。
どちらにせよ、そんな気持ちで旅立つなんて、寂しい道のりですね。駅長さんには励ますように事の道理を説いていた道真さんも、夕方になったり、ふと空を見たりすると、いろいろ思い出して切なくなってしまうのですね。単に寂しいだけでなく、納得できない我が身の上の不遇への嘆きも、そこにはあるわけですからねー。
2023年11月06日
道真左遷A
11月になったのに暖かいです。暖房費が浮くのは何よりです。続きです。
〈本文〉
この大臣(おとど)、子どもあまたおはせしに、女君(をんなぎみ)たちは婿とり、男君(をとこぎみ)たちは皆、ほどほどにつけて位どもおはせしを、それも皆方々(かたがた)に流されたまひてかなしきに、幼くおはしける男君・女君たち慕ひ泣きておはしければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせたまひしぞかし。帝の御おきて、きはめてあやにくにおはしませば、この御子(みこ)どもを、同じ方につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前(おまへ)の梅の花を御覧じて、
こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな
また、亭子(ていじ)の帝に聞えさせたまふ、
流れゆくわれはみくづとなりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ
なきことにより、かく罪せられたまふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家(すけ)せしめたまひて、
〈juppo〉有名な歌が出てきました。京都から福岡まで梅の香りを送ってね、と木にお願いする道真さん、流れをせき止めて流される私を止めて、と法王に頼む道真さんです。「しがらみ」とは川の中に杭と竹を縦横に結んだものを刺して、水をせき止める仕掛けのことだそうです。
今回漫画にするのに悩んだのは、朝廷が「小さきはあへなむ」と温情を寄せたのに、そのあとに「この御子たちを同じ方につかはさざりけり」とあるので、結局子どもたちは連れて行けたの?行けなかったの?ということなのです。小さい子を連れて行ったのが史実のようなので、「この御子たち」というのは大きい人たちの方を指すのだな、と解釈しました。
もう一つ、筑紫への道中でいきなり道真さん出家してますけど、実際出家したかどうかは不明らしいんです。文中にそうあるので出家したような絵にしましたが、事実と違う!とクレームが来ても私のせいではないんです。
この後に出てくるシーンでも、ちょっとドラマチックに盛っているらしい場面があるようですが、そこまでしなくても十分に同情せずにいられない道真さんの境遇ですよね。
ここまででかなり気の毒な展開ですが、まだまだ続きます。
〈本文〉
この大臣(おとど)、子どもあまたおはせしに、女君(をんなぎみ)たちは婿とり、男君(をとこぎみ)たちは皆、ほどほどにつけて位どもおはせしを、それも皆方々(かたがた)に流されたまひてかなしきに、幼くおはしける男君・女君たち慕ひ泣きておはしければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせたまひしぞかし。帝の御おきて、きはめてあやにくにおはしませば、この御子(みこ)どもを、同じ方につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前(おまへ)の梅の花を御覧じて、
こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな
また、亭子(ていじ)の帝に聞えさせたまふ、
流れゆくわれはみくづとなりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ
なきことにより、かく罪せられたまふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家(すけ)せしめたまひて、
〈juppo〉有名な歌が出てきました。京都から福岡まで梅の香りを送ってね、と木にお願いする道真さん、流れをせき止めて流される私を止めて、と法王に頼む道真さんです。「しがらみ」とは川の中に杭と竹を縦横に結んだものを刺して、水をせき止める仕掛けのことだそうです。
今回漫画にするのに悩んだのは、朝廷が「小さきはあへなむ」と温情を寄せたのに、そのあとに「この御子たちを同じ方につかはさざりけり」とあるので、結局子どもたちは連れて行けたの?行けなかったの?ということなのです。小さい子を連れて行ったのが史実のようなので、「この御子たち」というのは大きい人たちの方を指すのだな、と解釈しました。
もう一つ、筑紫への道中でいきなり道真さん出家してますけど、実際出家したかどうかは不明らしいんです。文中にそうあるので出家したような絵にしましたが、事実と違う!とクレームが来ても私のせいではないんです。
この後に出てくるシーンでも、ちょっとドラマチックに盛っているらしい場面があるようですが、そこまでしなくても十分に同情せずにいられない道真さんの境遇ですよね。
ここまででかなり気の毒な展開ですが、まだまだ続きます。
2023年10月29日
道真左遷@
10月になりました、と書こうと思っていましたが、もうすぐ11月です。リクエストにお応えします。「大鏡」です。
〈本文〉
この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康(しほんだんじやうのゐんさねやす)の親王(みこ)の御女(むすめ)なり。醍醐の帝の御時、この大臣、左大臣の位にて年いと若くておはします。菅原のおとど、右大臣の位にておはします。その折、帝御年いと若くおはします。左右(さう)の大臣に世の政(まつりごと)を行ふべきよし宣旨(せんじ)下さしめたまへりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にやおはしましけむ。ともに世の政をせしめたまひしあひだ、右大臣は才(ざえ)世にすぐれめでたくおはしまし、御心おきても、ことのほかにかしこくおはします。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣りたまへるにより、右大臣の御覚えことのほかにおはしましたるに、左大臣やすからず思(おぼ)したるほどに、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰(しやうたい)四年正月二十五日、大宰権帥(だざいのごんのそち)になしたてまつりて、流されたまふ。
〈juppo〉「大鏡」は道長のカッコイイ話で出来ていると思っていましたが、今回は道真です。菅原道真といえば学問の神様で、太宰府天満宮や菅原神社に祀られている方ですね。さらに、「天神様の細道じゃ」の天神様のことでもあるんですね。今回いろいろ調べている中で今さら知りました。余談ですが私は七五三のお祝いを菅原神社でしました。
いろいろ調べていると、道真さんちはお父さんもお祖父さんも、その上の代までさかのぼっても代々頭が良くて学者身分だったらしいです。伊達に学問の神にはならないようです。左大臣は若いからどころでなく到底並べるレベルではなかったのでは。
その道真さんが、大臣の位から転落して左遷されて筑紫に流されるお話です。
転落の顛末「よからぬこと」というのは、宇多上皇と醍醐天皇からの信任で政治を丸ごと任されそうになった道真がこれを断ったのを左大臣時平が妬んで、他の何名かと共謀して「道真は自分の娘婿を親王に立てようとして帝位を狙っている!」とでっち上げたのだそうです。要するに、ハメられたんですねー悲劇ですねー。
初回ですでに貶められて、左遷が決まった道真さんです。どこまで描けば良いかわからないまま、8回分くらい用意しましたので、左遷されてからの生活も次回からお届けします。
あ、そうそう1コマ目で語り始めたお爺さんは大宅世継という、「大鏡」の語り部です。「雲林院の菩提講」で登場してるんですけど、自分で描いたキャラがうろ覚えなので今回も過去の記事を見直しながら描きました。
〈本文〉
この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康(しほんだんじやうのゐんさねやす)の親王(みこ)の御女(むすめ)なり。醍醐の帝の御時、この大臣、左大臣の位にて年いと若くておはします。菅原のおとど、右大臣の位にておはします。その折、帝御年いと若くおはします。左右(さう)の大臣に世の政(まつりごと)を行ふべきよし宣旨(せんじ)下さしめたまへりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にやおはしましけむ。ともに世の政をせしめたまひしあひだ、右大臣は才(ざえ)世にすぐれめでたくおはしまし、御心おきても、ことのほかにかしこくおはします。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣りたまへるにより、右大臣の御覚えことのほかにおはしましたるに、左大臣やすからず思(おぼ)したるほどに、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰(しやうたい)四年正月二十五日、大宰権帥(だざいのごんのそち)になしたてまつりて、流されたまふ。
〈juppo〉「大鏡」は道長のカッコイイ話で出来ていると思っていましたが、今回は道真です。菅原道真といえば学問の神様で、太宰府天満宮や菅原神社に祀られている方ですね。さらに、「天神様の細道じゃ」の天神様のことでもあるんですね。今回いろいろ調べている中で今さら知りました。余談ですが私は七五三のお祝いを菅原神社でしました。
いろいろ調べていると、道真さんちはお父さんもお祖父さんも、その上の代までさかのぼっても代々頭が良くて学者身分だったらしいです。伊達に学問の神にはならないようです。左大臣は若いからどころでなく到底並べるレベルではなかったのでは。
その道真さんが、大臣の位から転落して左遷されて筑紫に流されるお話です。
転落の顛末「よからぬこと」というのは、宇多上皇と醍醐天皇からの信任で政治を丸ごと任されそうになった道真がこれを断ったのを左大臣時平が妬んで、他の何名かと共謀して「道真は自分の娘婿を親王に立てようとして帝位を狙っている!」とでっち上げたのだそうです。要するに、ハメられたんですねー悲劇ですねー。
初回ですでに貶められて、左遷が決まった道真さんです。どこまで描けば良いかわからないまま、8回分くらい用意しましたので、左遷されてからの生活も次回からお届けします。
あ、そうそう1コマ目で語り始めたお爺さんは大宅世継という、「大鏡」の語り部です。「雲林院の菩提講」で登場してるんですけど、自分で描いたキャラがうろ覚えなので今回も過去の記事を見直しながら描きました。
2022年03月01日
鶯の宿A
後半です。もちろん、もれなく鶯が出てきます。
〈本文〉
あるやうこそはとて、もて参りてさぶらひしを、『なにぞ』とて御覧ずれば、女の手にて書きて侍りける、
勅(ちよく)なればいともかしこしうぐひすの
宿はととはばいかが答へむ
とありけるに、あやしくおぼしめして、『何者の家ぞ』とたづねさせ給ひければ、貫之のぬしの御女(みむすめ)の住む所なりけり。『遺恨(ゐこん)のわざをもしたりけるかな』とて、あまえおはしましける。繁樹今生(こんじやう)の辱詬(ぞくがう)は、これや侍りけむ。さるは『思ふやうなる木もて参りたり』とて衣(きぬ)かづけられたりしも、からくなりにき』とてこまやかに笑ふ。
〈juppo〉日付が変わってもう3月です。ちらほら梅が咲き始めていますね。梅に鶯は当時から切っても切れない関係で、梅あるところ鶯あり、なのにその鶯ほったらかしで梅だけ移動させてしまった失敗の記録でした。
どんなに偉い人の命令でも、鶯の意見を無視して梅を持ってきてはいけない、という教訓がある話では別にありません、が、そんなことにも遺恨を感じる風流、が主題でしょうね。
「辱詬」は恥辱のことで、命令とはいえ実行したことを繁樹さんは大いに恥じております。それでいて最後の「こまやか」な笑いというのは、ちょっぴり笑っているというより、「心から」とか「心の底から」笑うという意味だそうです。恥じているのか。一生の恥であっても遠い昔のことになってしまうと「何もかも懐かしいなぁ」と温かい気持ちになるのか、ちょっとそんな感覚もわかるお年頃の私です。
今でも使う言葉でも意味が違うと厄介ですね。「あまえ」が「恥じる」の意味だとか。終止形は「あまゆ」なんです。深く考えずに読んでいると、「なに甘えてんだ」な感想を抱くことになってしまいますね。
「貫之のぬしの御女」の貫之とは、そうです紀貫之のことです。その娘とはこれまた歌人の紀内侍(きのないし)なんですね。「ぬし」は前回も出てきて、説明しませんでしたが敬称です。「〜殿」などと同じ働きだそうです。
久しぶりの大鏡はこれにて終了です。次回はまた漢文、かもしれません。
〈本文〉
あるやうこそはとて、もて参りてさぶらひしを、『なにぞ』とて御覧ずれば、女の手にて書きて侍りける、
勅(ちよく)なればいともかしこしうぐひすの
宿はととはばいかが答へむ
とありけるに、あやしくおぼしめして、『何者の家ぞ』とたづねさせ給ひければ、貫之のぬしの御女(みむすめ)の住む所なりけり。『遺恨(ゐこん)のわざをもしたりけるかな』とて、あまえおはしましける。繁樹今生(こんじやう)の辱詬(ぞくがう)は、これや侍りけむ。さるは『思ふやうなる木もて参りたり』とて衣(きぬ)かづけられたりしも、からくなりにき』とてこまやかに笑ふ。
〈juppo〉日付が変わってもう3月です。ちらほら梅が咲き始めていますね。梅に鶯は当時から切っても切れない関係で、梅あるところ鶯あり、なのにその鶯ほったらかしで梅だけ移動させてしまった失敗の記録でした。
どんなに偉い人の命令でも、鶯の意見を無視して梅を持ってきてはいけない、という教訓がある話では別にありません、が、そんなことにも遺恨を感じる風流、が主題でしょうね。
「辱詬」は恥辱のことで、命令とはいえ実行したことを繁樹さんは大いに恥じております。それでいて最後の「こまやか」な笑いというのは、ちょっぴり笑っているというより、「心から」とか「心の底から」笑うという意味だそうです。恥じているのか。一生の恥であっても遠い昔のことになってしまうと「何もかも懐かしいなぁ」と温かい気持ちになるのか、ちょっとそんな感覚もわかるお年頃の私です。
今でも使う言葉でも意味が違うと厄介ですね。「あまえ」が「恥じる」の意味だとか。終止形は「あまゆ」なんです。深く考えずに読んでいると、「なに甘えてんだ」な感想を抱くことになってしまいますね。
「貫之のぬしの御女」の貫之とは、そうです紀貫之のことです。その娘とはこれまた歌人の紀内侍(きのないし)なんですね。「ぬし」は前回も出てきて、説明しませんでしたが敬称です。「〜殿」などと同じ働きだそうです。
久しぶりの大鏡はこれにて終了です。次回はまた漢文、かもしれません。
2022年02月28日
鶯の宿@
読めない漢字を拾って漢文を綴る苦行から解放されたのも束の間、鶯が読めません。正解は後ほど。リクエストにお応えしています。久しぶりの「大鏡」です。
〈本文〉
「いとをかしうあはれに侍りしことは、この天暦(てんりやく)の御時に、清涼殿の御(お)前の梅の木の枯れたりしかば、求めさせ給皮脂に、なにがしのぬしの蔵人(くらうど)にていますかりし時承りて、『若き者どもはえ見知らじ。きむぢ求めよ』とのたまひしかば、ひと京まかりありきしかども、侍らざりしに、西の京のそこそこなる家に、色濃く咲きたる木のやうだいうつくしきが侍りしを、掘り取りしかば、家あるじの、『木にこれゆひつけてもて参れ』とて、
〈juppo〉鶯は「うぐいす」と読みます。山手線の鶯谷駅で降りたことが1度くらいはあると思いますが、駅名を漢字で書く機会が今までの人生に訪れませんでした。
タイトルに鶯が出てきたからには鶯ご本人が登場しそうですが、今回は出てきません。2回でお送りしますので、次回をお楽しみに。
1コマ目から登場しているお爺さんは、以前「雲林院の菩提講」に出てきた夏山繁樹という人です。その繁樹さんの語る昔話になっているんですね。どのくらい昔かというと、70年くらい昔のようです。そういうわけで回想シーンではぐっと若い姿に描いています。なにがしの蔵人が「若き者どもは」という言い方をしているところを見ると、この時すでに繁樹さんはそう若くないのかもしれませんが、とにかく昔の話なので。
枯れてしまった木に代わる梅の木を探し歩いた繁樹さんがやっと見つけた見事な木の持ち主は、どうやら女主人のようなんです。ここではそう分かる記述はないんですけど、後半で女性だということがわかります。
その女性が梅の木につけて「もて参れ」と言ったのが文だという記述もないですよね。でもこの後でそれを読むので、ああ文なんだなくらいのことが分かるわけです。
その文面とか鶯はいつ出てくるのかとか、そんなに長くない後半ですがいろいろお楽しみに。わりとすぐ更新します。
〈本文〉
「いとをかしうあはれに侍りしことは、この天暦(てんりやく)の御時に、清涼殿の御(お)前の梅の木の枯れたりしかば、求めさせ給皮脂に、なにがしのぬしの蔵人(くらうど)にていますかりし時承りて、『若き者どもはえ見知らじ。きむぢ求めよ』とのたまひしかば、ひと京まかりありきしかども、侍らざりしに、西の京のそこそこなる家に、色濃く咲きたる木のやうだいうつくしきが侍りしを、掘り取りしかば、家あるじの、『木にこれゆひつけてもて参れ』とて、
〈juppo〉鶯は「うぐいす」と読みます。山手線の鶯谷駅で降りたことが1度くらいはあると思いますが、駅名を漢字で書く機会が今までの人生に訪れませんでした。
タイトルに鶯が出てきたからには鶯ご本人が登場しそうですが、今回は出てきません。2回でお送りしますので、次回をお楽しみに。
1コマ目から登場しているお爺さんは、以前「雲林院の菩提講」に出てきた夏山繁樹という人です。その繁樹さんの語る昔話になっているんですね。どのくらい昔かというと、70年くらい昔のようです。そういうわけで回想シーンではぐっと若い姿に描いています。なにがしの蔵人が「若き者どもは」という言い方をしているところを見ると、この時すでに繁樹さんはそう若くないのかもしれませんが、とにかく昔の話なので。
枯れてしまった木に代わる梅の木を探し歩いた繁樹さんがやっと見つけた見事な木の持ち主は、どうやら女主人のようなんです。ここではそう分かる記述はないんですけど、後半で女性だということがわかります。
その女性が梅の木につけて「もて参れ」と言ったのが文だという記述もないですよね。でもこの後でそれを読むので、ああ文なんだなくらいのことが分かるわけです。
その文面とか鶯はいつ出てくるのかとか、そんなに長くない後半ですがいろいろお楽しみに。わりとすぐ更新します。
2020年12月24日
花山院の出家B
続きです。メリクリです。
〈本文〉
花山寺におはしまし着きて、御髪(みぐし)おろさせたまひて後(のち)にぞ、粟田殿は、「まかり出出て、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内(あない)申して、かならずまゐりはべらむ」と申したまひければ、「朕(われ)をば謀(はか)るなりけり」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にてさぶらはむ」と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。東三条殿(とうさんでうどの)は、「もしさることやしたまふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺(わたり)よりぞうち出でまゐりける。寺などにては、「もし、おして人などやなしたてまつる」とて、一尺(ひとさく)ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。
〈juppo〉聖なる夜に、悲しいお話をお届けしなければなりません。ここまで描いてこそ「花山院の出家」をcompleteなのは、信じた者に裏切られて不本意なまま出家するに至った帝の悲運を見届けるためだったのですね。
名前を整理します。「粟田殿」はここにいる道兼のことです。道兼の父「おとど」は藤原兼家です。5コマ目に登場していますが、自分が過去にこのブログですでにそのキャラを描いてなかったかどうか、しばし調べました。多分初登場です。
この父と、息子道兼の間では帝だけに出家させてそれに付き合うつもりはないことは、打ち合わせ済みだったようですね。そうとは知らず、剃髪してしまってから陰謀に気づいた帝のショックやいかばかり・・です。
道兼は父親に様子を見せたら戻ってくると言ってるのですけど、戻ってくる気がないことにはすぐに気づく帝です。もっと細々したやりとりや素振りがあったのかもしれませんが、ここでは大筋しか語られていません。何しろ、頼りになる護衛をつけましたよ、ってとこで唐突に終わりです。この続きはないんです。
ですから次回は「くらもちの皇子」に戻ります。
〈本文〉
花山寺におはしまし着きて、御髪(みぐし)おろさせたまひて後(のち)にぞ、粟田殿は、「まかり出出て、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内(あない)申して、かならずまゐりはべらむ」と申したまひければ、「朕(われ)をば謀(はか)るなりけり」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にてさぶらはむ」と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。東三条殿(とうさんでうどの)は、「もしさることやしたまふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺(わたり)よりぞうち出でまゐりける。寺などにては、「もし、おして人などやなしたてまつる」とて、一尺(ひとさく)ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。
〈juppo〉聖なる夜に、悲しいお話をお届けしなければなりません。ここまで描いてこそ「花山院の出家」をcompleteなのは、信じた者に裏切られて不本意なまま出家するに至った帝の悲運を見届けるためだったのですね。
名前を整理します。「粟田殿」はここにいる道兼のことです。道兼の父「おとど」は藤原兼家です。5コマ目に登場していますが、自分が過去にこのブログですでにそのキャラを描いてなかったかどうか、しばし調べました。多分初登場です。
この父と、息子道兼の間では帝だけに出家させてそれに付き合うつもりはないことは、打ち合わせ済みだったようですね。そうとは知らず、剃髪してしまってから陰謀に気づいた帝のショックやいかばかり・・です。
道兼は父親に様子を見せたら戻ってくると言ってるのですけど、戻ってくる気がないことにはすぐに気づく帝です。もっと細々したやりとりや素振りがあったのかもしれませんが、ここでは大筋しか語られていません。何しろ、頼りになる護衛をつけましたよ、ってとこで唐突に終わりです。この続きはないんです。
ですから次回は「くらもちの皇子」に戻ります。
2020年12月22日
花山院の出家A
急に「大鏡」です。とあるリクエストで。
くらもちの皇子の続きは「近日中に」と言っておいて続かない、そんなブログです。
〈本文〉
さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出(い)だしまゐらせたまふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王(みかど)おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏(そう)せむ。車に装束(そうぞく)とうせよ」といふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且(かつがつ)、色神一人内裏(だいり)にまゐれ」と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後(うしろ)をや見まゐらせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口(まちぐち)なれば、御道なりけり。
〈juppo〉何の前触れもなく「大鏡」で、しかもAです。@はこちらにあります。なんと2011年1月の投稿です。10年前ですね。
実は@だけ描いた、もとは「天皇御出家」というタイトルだったその記事と、その前の「花山天皇」とを、書籍「高校古文まだまだこういう話」に掲載するつもりでした。ところが、編集段階で「ちょっと待った」が入りました。この続きが重要なのでそれを描くべきだということでした。その時に描かなかったのは、時間がなかったからです。その翌年に出た「高校古文じっくりこういう話」の時にはその話題が出なかったので、スルーされることになり、@を描いてから10年、続きを描く案が出てから2年も経ってようやく、作品化にこぎつけました!
今やっと描いたのは今年出版されるはずだった5冊目の書籍に入れる予定があったからです。今年はもう出ません。来年のお楽しみです。ご期待ください。
今回は花山帝が粟田殿こと藤原道兼に連れられて、出家への途についたところです。その通り道に住んでるのがあの、安倍晴明ですよ皆さん、陰陽師ですよ。
晴明は帝が退位するのを前もって知っています。式神は「しきがみ」ですが「しきしん」とも「しきのかみ」とも言ったりするようで、陰陽師の手となり足となる鬼神だとか。人じゃないんですね。
そういうキャラですし「目には見えぬ」ということなので、ぼんやり描いておきました。
続きがあります。もう1回。くらもちの皇子については、その後で。年内を目指します。
くらもちの皇子の続きは「近日中に」と言っておいて続かない、そんなブログです。
〈本文〉
さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出(い)だしまゐらせたまふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王(みかど)おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏(そう)せむ。車に装束(そうぞく)とうせよ」といふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且(かつがつ)、色神一人内裏(だいり)にまゐれ」と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後(うしろ)をや見まゐらせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口(まちぐち)なれば、御道なりけり。
〈juppo〉何の前触れもなく「大鏡」で、しかもAです。@はこちらにあります。なんと2011年1月の投稿です。10年前ですね。
実は@だけ描いた、もとは「天皇御出家」というタイトルだったその記事と、その前の「花山天皇」とを、書籍「高校古文まだまだこういう話」に掲載するつもりでした。ところが、編集段階で「ちょっと待った」が入りました。この続きが重要なのでそれを描くべきだということでした。その時に描かなかったのは、時間がなかったからです。その翌年に出た「高校古文じっくりこういう話」の時にはその話題が出なかったので、スルーされることになり、@を描いてから10年、続きを描く案が出てから2年も経ってようやく、作品化にこぎつけました!
今やっと描いたのは今年出版されるはずだった5冊目の書籍に入れる予定があったからです。今年はもう出ません。来年のお楽しみです。ご期待ください。
今回は花山帝が粟田殿こと藤原道兼に連れられて、出家への途についたところです。その通り道に住んでるのがあの、安倍晴明ですよ皆さん、陰陽師ですよ。
晴明は帝が退位するのを前もって知っています。式神は「しきがみ」ですが「しきしん」とも「しきのかみ」とも言ったりするようで、陰陽師の手となり足となる鬼神だとか。人じゃないんですね。
そういうキャラですし「目には見えぬ」ということなので、ぼんやり描いておきました。
続きがあります。もう1回。くらもちの皇子については、その後で。年内を目指します。
2014年07月06日
村上天皇と中宮安子A
続きです。期末テスト中の皆さん、ご苦労様です。
〈本文〉
「渡らせ給(たま)へ」と申(まう)させ給へば、思ふにこのことならむ、とおぼしめして、渡らせ給はぬを、たびたび、なほも御消息(ごせうそこ)ありければ、渡らずばいとどこそはむづからめと、恐ろしう、いとほしくおぼしめして、おはしましたるに、「いかで、かかることはせさせ給ひたるぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をばおぼしめし免(ゆる)すべきなり。いはむや、まろが意(こころ)ざまにて、かくせさせ給ふは、いとあるまじく心憂(こころう)きことなり。ただ今召(め)し返(かへ)せ」と申させ給ひければ、「いかでか、ただ今は免さむ。音聞(おとぎ)き見苦しきことなり」と聞こえさせ給ひけるを、「さらにあるべきことならず」と、責め給ひければ、「さらば」とて、帰り渡らせ給ふを、「おはしましなば、ただ今しも免させ給はじ。ただこなたにてを召せ」とて、御衣(おんぞ)をとらへ奉(たてまつ)りて、立て奉らせ給はざりければ、いかがはせむとおぼしめして、この御方(おほんかた)に職事(しきじ)召してぞ、参(まゐ)るべきよしの宣旨(せんじ)を下させ給ひける。これのみにもあらず、かやうなる事(こと)ども、いかに多く聞こえ侍(はべ)りしかは。
〈juppo〉後半はほとんど夫婦ゲンカの8コマでした。完全に尻に敷かれる村上天皇です。中宮安子は、調べたら13歳くらいで村上さんに嫁いでいます。嫁いだ時はまだ天皇ではありませんでした。村上天皇を継ぐ冷泉天皇、その次の円融天皇を産んだ人なのだそうです。そしてこの『大鏡』ではおなじみの、藤原道長は甥にあたるそうですよ。
帝にとっては本妻ですし、子供を何人も産んでいるらしいので、もっとどーんと構えていても良さそうな気もしますが、この気性の荒さがあってこそ本妻の座を死守し得たのかもしれません。38歳くらいで亡くなってしまうようですけど。
一方の帝はどう見ても后を愛してますよね。なんだかんだ言っても妻の要求を最後には飲んでますからねー。「さかさまの罪」というのはその名の通り、従うべき主君や親を裏切る罪のことだそうですが、そんな罪を犯しても自分に免じて許すべきだ、という主張です。その自信は一体どこから・・・と呆れるほどの強さに押されるしかなかったとしても、恐らくこういう事が日頃から繰り返されていて、そのつど帝が引いてるんだろうな、と思わせる結末であります。
このお話は今回で終了です。前回書いた通り、ここに至る前半部分はいつか機会かリクエストがあったら、描こうと思います。
さて、期末テストが終わればもうすぐ夏休みですね!皆さん、夏休みの予定はもうお決まりですか?
我が家では最近、奥多摩方面の温泉巡りがブームです。
これでも東京都。
秋川渓谷では忍者を募集しております。
先週は山梨まで。
〈本文〉
「渡らせ給(たま)へ」と申(まう)させ給へば、思ふにこのことならむ、とおぼしめして、渡らせ給はぬを、たびたび、なほも御消息(ごせうそこ)ありければ、渡らずばいとどこそはむづからめと、恐ろしう、いとほしくおぼしめして、おはしましたるに、「いかで、かかることはせさせ給ひたるぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をばおぼしめし免(ゆる)すべきなり。いはむや、まろが意(こころ)ざまにて、かくせさせ給ふは、いとあるまじく心憂(こころう)きことなり。ただ今召(め)し返(かへ)せ」と申させ給ひければ、「いかでか、ただ今は免さむ。音聞(おとぎ)き見苦しきことなり」と聞こえさせ給ひけるを、「さらにあるべきことならず」と、責め給ひければ、「さらば」とて、帰り渡らせ給ふを、「おはしましなば、ただ今しも免させ給はじ。ただこなたにてを召せ」とて、御衣(おんぞ)をとらへ奉(たてまつ)りて、立て奉らせ給はざりければ、いかがはせむとおぼしめして、この御方(おほんかた)に職事(しきじ)召してぞ、参(まゐ)るべきよしの宣旨(せんじ)を下させ給ひける。これのみにもあらず、かやうなる事(こと)ども、いかに多く聞こえ侍(はべ)りしかは。
〈juppo〉後半はほとんど夫婦ゲンカの8コマでした。完全に尻に敷かれる村上天皇です。中宮安子は、調べたら13歳くらいで村上さんに嫁いでいます。嫁いだ時はまだ天皇ではありませんでした。村上天皇を継ぐ冷泉天皇、その次の円融天皇を産んだ人なのだそうです。そしてこの『大鏡』ではおなじみの、藤原道長は甥にあたるそうですよ。
帝にとっては本妻ですし、子供を何人も産んでいるらしいので、もっとどーんと構えていても良さそうな気もしますが、この気性の荒さがあってこそ本妻の座を死守し得たのかもしれません。38歳くらいで亡くなってしまうようですけど。
一方の帝はどう見ても后を愛してますよね。なんだかんだ言っても妻の要求を最後には飲んでますからねー。「さかさまの罪」というのはその名の通り、従うべき主君や親を裏切る罪のことだそうですが、そんな罪を犯しても自分に免じて許すべきだ、という主張です。その自信は一体どこから・・・と呆れるほどの強さに押されるしかなかったとしても、恐らくこういう事が日頃から繰り返されていて、そのつど帝が引いてるんだろうな、と思わせる結末であります。
このお話は今回で終了です。前回書いた通り、ここに至る前半部分はいつか機会かリクエストがあったら、描こうと思います。
さて、期末テストが終わればもうすぐ夏休みですね!皆さん、夏休みの予定はもうお決まりですか?
我が家では最近、奥多摩方面の温泉巡りがブームです。
これでも東京都。
秋川渓谷では忍者を募集しております。
先週は山梨まで。
2014年06月29日
村上天皇と中宮安子@
リクエストにお応えします!大変長らくお待たせいたしています。『大鏡』です。
〈本文〉
藤壷(ふぢつぼ)、弘徽殿(こきでん)、上(うへ)の御局(みづぼね)は、ほどもなく近きに、藤壷の方(かた)には小一条女御(こいちでうのにようご)芳子(ほうし)、弘徽殿にはこの后(きさき)安子(あんし)上(のぼ)りておはしましあへるを、いとやすからずおぼしめして、えやしづめがたくおはしましけむ、中隔(なかへだ)ての壁に穴をあけて、のぞかせ給(たま)ひけるに、女御の御容貌(おほんかたち)の、いと美しうめでたうおはしましければ、むべ時めくにこそありけれと御覧(ごらん)ずるに、いとど心やましくならせ給ひて、穴よりとほるばかりの土器(かはらけ)の割れして、打たせ給へりければ、帝(みかど)のおはしますほどにて、こればかりには、え堪(た)へさせ給はず、むづかりおはしまして、「かやうのことは、女房(にようばう)はえせじ。伊尹(これまさ)・兼通(かねみち)・兼家(かねいへ)などが、言ひもよほしてせさするならむ」と仰(おほ)せられて、皆殿上(てんじやう)にさぶらはせ給ふほどなりければ、三所(みところ)ながら、かしこまらせ給へりしかば、その折(をり)に、后いとど大(おほ)きに腹立たせ給ひて、
〈juppo〉ご無沙汰してしまいました。ブログを更新しない間に日本代表はもうブラジルから帰国してしまったではありませんか。大会前にはW杯って1ヶ月もやってるんだぁ〜と感想を抱いたものでしたが。
こちらのリクエストは中間試験前にいただいたのですが、気づくともう期末試験前か後ですね。本当にいつもスミマセン。
先週、近くの中学校の期末テスト対策学習会のお手伝いに呼ばれて行った際に、図書室で訳を作って来ました。
図書室にあった『大鏡』は厚くて固い本でしたので内容が詳しく載っており、ここの部分は「右大臣師輔」の章にあり、中宮安子についてはここの少し前の部分から話が始まっていて、その部分もついでに図書室で訳したのですが、多分教科書に載っているのはここからかなー、と思ったのでここから描きます。
描かなかった前の方の部分というのは、主にその右大臣師輔についての説明です。右大臣には息子が11人、娘が5、6人いて、第一の姫が安子です。安子は多くの女御の中でも輝く存在だったそうですが、ちょっとイジワルで嫉妬深い性格だった、というようなことが前の部分に書かれているのです。
その内容を知っていてもいなくても、この部分の解釈に影響はないと思うので、特にリクエスト等いただかない限りはその部分は漫画にしないことにします。とりあえず。
ちょっとイジワルで嫉妬深いので、隣の部屋に他の女がいるだけで落ち着かない安子です。藤壷、小徽殿の上の部屋というのは帝の住まいである清涼殿の、女御が控える部屋です。「壁に穴をあけ」とありますが、実際にはこの2人がいる部屋は壁1枚で隔たっている訳ではないので、穴から覗いたり、焼き物のかけらを投げ入れたりすることは不可能なんだそうです。一説にはこのエピソードが起こった当時は壁だけだった、とするものもあるようですが。
伊尹・兼通・兼家の3人は安子の兄弟です。安子のせいにはせず、兄弟たちにそそのかされたんだろうと思う帝には優しさを感じますが、安子は感じなかったようで、兄弟たちがそのせいで謹慎させられたことにまたご立腹・・・というところで続きます。
ところで全くの余談ですけど、芳子、安子という名前はどうしても「よしこ」「やすこ」と読んでしまいますよねー。別にそれでいいと思いますけど。読み方がテストに出ない限りは。この記事を書く時もずっと「やすこ」で入力・変換しましたよ。『枕草子』の中宮定子も「さだこ」です。「ていし」で変換すると「停止」になってめんどくさいので。
〈本文〉
藤壷(ふぢつぼ)、弘徽殿(こきでん)、上(うへ)の御局(みづぼね)は、ほどもなく近きに、藤壷の方(かた)には小一条女御(こいちでうのにようご)芳子(ほうし)、弘徽殿にはこの后(きさき)安子(あんし)上(のぼ)りておはしましあへるを、いとやすからずおぼしめして、えやしづめがたくおはしましけむ、中隔(なかへだ)ての壁に穴をあけて、のぞかせ給(たま)ひけるに、女御の御容貌(おほんかたち)の、いと美しうめでたうおはしましければ、むべ時めくにこそありけれと御覧(ごらん)ずるに、いとど心やましくならせ給ひて、穴よりとほるばかりの土器(かはらけ)の割れして、打たせ給へりければ、帝(みかど)のおはしますほどにて、こればかりには、え堪(た)へさせ給はず、むづかりおはしまして、「かやうのことは、女房(にようばう)はえせじ。伊尹(これまさ)・兼通(かねみち)・兼家(かねいへ)などが、言ひもよほしてせさするならむ」と仰(おほ)せられて、皆殿上(てんじやう)にさぶらはせ給ふほどなりければ、三所(みところ)ながら、かしこまらせ給へりしかば、その折(をり)に、后いとど大(おほ)きに腹立たせ給ひて、
〈juppo〉ご無沙汰してしまいました。ブログを更新しない間に日本代表はもうブラジルから帰国してしまったではありませんか。大会前にはW杯って1ヶ月もやってるんだぁ〜と感想を抱いたものでしたが。
こちらのリクエストは中間試験前にいただいたのですが、気づくともう期末試験前か後ですね。本当にいつもスミマセン。
先週、近くの中学校の期末テスト対策学習会のお手伝いに呼ばれて行った際に、図書室で訳を作って来ました。
図書室にあった『大鏡』は厚くて固い本でしたので内容が詳しく載っており、ここの部分は「右大臣師輔」の章にあり、中宮安子についてはここの少し前の部分から話が始まっていて、その部分もついでに図書室で訳したのですが、多分教科書に載っているのはここからかなー、と思ったのでここから描きます。
描かなかった前の方の部分というのは、主にその右大臣師輔についての説明です。右大臣には息子が11人、娘が5、6人いて、第一の姫が安子です。安子は多くの女御の中でも輝く存在だったそうですが、ちょっとイジワルで嫉妬深い性格だった、というようなことが前の部分に書かれているのです。
その内容を知っていてもいなくても、この部分の解釈に影響はないと思うので、特にリクエスト等いただかない限りはその部分は漫画にしないことにします。とりあえず。
ちょっとイジワルで嫉妬深いので、隣の部屋に他の女がいるだけで落ち着かない安子です。藤壷、小徽殿の上の部屋というのは帝の住まいである清涼殿の、女御が控える部屋です。「壁に穴をあけ」とありますが、実際にはこの2人がいる部屋は壁1枚で隔たっている訳ではないので、穴から覗いたり、焼き物のかけらを投げ入れたりすることは不可能なんだそうです。一説にはこのエピソードが起こった当時は壁だけだった、とするものもあるようですが。
伊尹・兼通・兼家の3人は安子の兄弟です。安子のせいにはせず、兄弟たちにそそのかされたんだろうと思う帝には優しさを感じますが、安子は感じなかったようで、兄弟たちがそのせいで謹慎させられたことにまたご立腹・・・というところで続きます。
ところで全くの余談ですけど、芳子、安子という名前はどうしても「よしこ」「やすこ」と読んでしまいますよねー。別にそれでいいと思いますけど。読み方がテストに出ない限りは。この記事を書く時もずっと「やすこ」で入力・変換しましたよ。『枕草子』の中宮定子も「さだこ」です。「ていし」で変換すると「停止」になってめんどくさいので。
2014年03月18日
肝試しB
完結編です。テスト前に全部ご紹介出来なくて、ホントすみません。
〈本文〉
入道殿はいと久しく見えさせ給(たま)はぬを、いかがとおぼしめすほどにぞ、いとさりげなく、ことにもあらずげにて参(まゐ)らせ給へる。
「いかにいかに」と問はせ給へば、いとのどやかに、御刀(おほんかたな)に、削(けづ)られたる物を取り具(ぐ)して奉(たてまつ)らせ給ふに、「こは何ぞ」と仰(おほ)せらるれば、「ただにて帰り参りて侍(はべ)らむは、証(そう)さぶらふまじきにより、高御座(たかみくら)の南面(みなみおもて)の柱のもとを、削りてさぶらふなり」と、つれなく申し給ふに、いとあさましくおぼしめさる。こと殿達(とのたち)の御気色(みけしき)は、いかにもなほなほらで、この殿のかくて参り給へるを、帝よりはじめ、感じののしられ給へど、羨ましきにや、またいかなるにか、ものも言はでぞさぶらひ給ひける。なほ、疑はしくおぼしめされければ、持ていきて押しつけて見給ひけるに、つゆたがはざりけり。その削り跡は、いとけざやかにて侍めり。末(すゑ)の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申ししかし。
〈juppo〉賢明な読者の皆さんはもうお気づきだったかと思いますが、結末は当然、道長のひとり勝ちです。カッコイイ所を見せておしまい、ってことです。
でも、今こうして読んでみると、実際そう大したことはしてないと思いませんか?
夜道をひとりで出かけて行って、柱を削って帰って来ただけですよ。
道隆、道兼がヘタレで任務を遂行出来なかったから、ただひとり成功した道長がこうまで持ち上げられているのは、行き過ぎな感じですよね。贔屓の引きたおしになってしまいそうです。
他人の失態を利用して英雄ぶるのってどうなの?というか。道長本人に、そんな気はなかったのかもしれませんけれども。
高御座は、帝がお座りになる玉座のことだそうです。そんな恐れ多い建造物を破損して、それは大丈夫なのか?と心配になります。
「なほなほらで」という部分が、何か変な言葉みたいで面白かったんですけど、「なお なおらで」と切って読むんですね。尚、直らないで、ということですね。
ところで、今年も花粉症の季節がやってまいりました。
今年の花粉は去年より少ないと聞いていた通り、今月に入っても大した症状は出なかったのですが、ここ2週間くらい鼻水が止まりません。毎年のことなので、鼻をかみ続けることくらい何でもないんですけど、続けていると頭が痛くなって来るのが困りものです。
こうして毎年、春を迎えるのだなと思えば忌み嫌うばかりのものでもないんですけどね〜。
〈本文〉
入道殿はいと久しく見えさせ給(たま)はぬを、いかがとおぼしめすほどにぞ、いとさりげなく、ことにもあらずげにて参(まゐ)らせ給へる。
「いかにいかに」と問はせ給へば、いとのどやかに、御刀(おほんかたな)に、削(けづ)られたる物を取り具(ぐ)して奉(たてまつ)らせ給ふに、「こは何ぞ」と仰(おほ)せらるれば、「ただにて帰り参りて侍(はべ)らむは、証(そう)さぶらふまじきにより、高御座(たかみくら)の南面(みなみおもて)の柱のもとを、削りてさぶらふなり」と、つれなく申し給ふに、いとあさましくおぼしめさる。こと殿達(とのたち)の御気色(みけしき)は、いかにもなほなほらで、この殿のかくて参り給へるを、帝よりはじめ、感じののしられ給へど、羨ましきにや、またいかなるにか、ものも言はでぞさぶらひ給ひける。なほ、疑はしくおぼしめされければ、持ていきて押しつけて見給ひけるに、つゆたがはざりけり。その削り跡は、いとけざやかにて侍めり。末(すゑ)の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申ししかし。
〈juppo〉賢明な読者の皆さんはもうお気づきだったかと思いますが、結末は当然、道長のひとり勝ちです。カッコイイ所を見せておしまい、ってことです。
でも、今こうして読んでみると、実際そう大したことはしてないと思いませんか?
夜道をひとりで出かけて行って、柱を削って帰って来ただけですよ。
道隆、道兼がヘタレで任務を遂行出来なかったから、ただひとり成功した道長がこうまで持ち上げられているのは、行き過ぎな感じですよね。贔屓の引きたおしになってしまいそうです。
他人の失態を利用して英雄ぶるのってどうなの?というか。道長本人に、そんな気はなかったのかもしれませんけれども。
高御座は、帝がお座りになる玉座のことだそうです。そんな恐れ多い建造物を破損して、それは大丈夫なのか?と心配になります。
「なほなほらで」という部分が、何か変な言葉みたいで面白かったんですけど、「なお なおらで」と切って読むんですね。尚、直らないで、ということですね。
ところで、今年も花粉症の季節がやってまいりました。
今年の花粉は去年より少ないと聞いていた通り、今月に入っても大した症状は出なかったのですが、ここ2週間くらい鼻水が止まりません。毎年のことなので、鼻をかみ続けることくらい何でもないんですけど、続けていると頭が痛くなって来るのが困りものです。
こうして毎年、春を迎えるのだなと思えば忌み嫌うばかりのものでもないんですけどね〜。
2014年03月11日
肝試しA
順調に更新します。続きです。
〈本文〉
「私の従者(ずさ)をば具(ぐ)しさぶらはじ。この陣(ぢん)の吉上(きちじやう)まれ、滝口(たきぐち)まれ、一人を『昭慶門(せうけいもん)まで送れ』と仰せ言(ごと)たべ。それより内には一人入(い)り侍(はべ)らむ」と申し給へば、「証(そう)なきこと」と仰せらるるに、「げに」とて、御手箱(おほんてばこ)におかせ給へる小刀(こがたな)申して立ち給ひぬ。今二所(ふたところ)も、にがむにがむ各々おはさうじぬ。
「子(ね)四(よ)つ」と奏(そう)して、かく仰せられ議(ぎ)するほどに、丑(うし)にもなりにけむ。
「道隆は右衛門(うゑもん)の陣より出(い)でよ。道長は承明門(しようめいもん)より出でよ」と、それをさへ分かたせ給へば、しかおはしましあへるに、中関白殿(なかのくわんぱくどの)、陣まで念じておはしましたるに、宴(えん)の松原のほどに、そのものともなき声どもの聞こゆるに、術(ずち)なくて帰り給ふ。粟田殿(あはたどの)は、露台(ろだい)の外(と)までわななくわななくおはしたるに、仁寿殿(じじゆうでん)の東面(ひんがしおもて)の砌(みぎり)のほどに、軒と等しき人のあるやうに見え給ひければ、ものもおぼえで、「身(み)のさぶらはばこそ、仰せ言(ごと)も承(うけたまは)らめ」とて、各々立ち帰り参(まゐ)り給へれば、御扇(おほんあふぎ)をたたきて笑はせ給ふに、
〈juppo〉大分夜更かしをしている殿上人たちです。午前2時の丑三つ時になって、帝はノリノリです。肝試しのルートを決めてますね。
「陣」はここでは、警護の役人が詰めている所です。「吉上」、「滝口」はそれぞれ役職名です。
「昭慶門」は道長の目指す「大極殿」の前にある門です。
「右衛門」は門の開け閉めなどを担当する人たちのことで、門が左右にあるうちの右側の門です。「承明門」はその門とは違う方向にあって、出口から別々に行けと言ってるのですね。
「宴の松原」は道隆の向かう豊楽院の手前にあったらしい松林のことのようです。「露台」は建物の一部で、屋根のない台のことですが、ここでは建物と建物の間にある渡り廊下のようなところだそうです。
このように、建物の名前やら建築様式の呼び名やらがたくさん出てくるので、地図を描こうかと思いましたが、どこまで行ったかはそんなに重要じゃないと思って描かないことにしました。
内裏図は辞書や便覧などにも載っているはずですので、お手元にある方は参照しながら3人の肝試しルートを辿ってみるのも面白いかと思います。結局、道隆が一番近い所で脱落した模様です。ほとんど外に行ってない感じですけど、なにしろ夜中の2時で平安時代ですからね〜。外には魑魅魍魎がうろついて陰陽師と戦いを繰り広げていた時代です。
それにしても、というかそんな時代だからなのか、肝試しなんてやってたんですね〜、昔の人も。物の怪と共存してた時代の肝試しは「試す」レベルでは終わらないのではないかと案じられますが、深夜に、明かりもあまりない所で、一人で行って何かして帰ってくる、という肝試しルールが1000年前から変わらずに21世紀に継承されていることに感銘を受けますよね。
残るは道長の行方だけですね。あと1回、続きます。
〈本文〉
「私の従者(ずさ)をば具(ぐ)しさぶらはじ。この陣(ぢん)の吉上(きちじやう)まれ、滝口(たきぐち)まれ、一人を『昭慶門(せうけいもん)まで送れ』と仰せ言(ごと)たべ。それより内には一人入(い)り侍(はべ)らむ」と申し給へば、「証(そう)なきこと」と仰せらるるに、「げに」とて、御手箱(おほんてばこ)におかせ給へる小刀(こがたな)申して立ち給ひぬ。今二所(ふたところ)も、にがむにがむ各々おはさうじぬ。
「子(ね)四(よ)つ」と奏(そう)して、かく仰せられ議(ぎ)するほどに、丑(うし)にもなりにけむ。
「道隆は右衛門(うゑもん)の陣より出(い)でよ。道長は承明門(しようめいもん)より出でよ」と、それをさへ分かたせ給へば、しかおはしましあへるに、中関白殿(なかのくわんぱくどの)、陣まで念じておはしましたるに、宴(えん)の松原のほどに、そのものともなき声どもの聞こゆるに、術(ずち)なくて帰り給ふ。粟田殿(あはたどの)は、露台(ろだい)の外(と)までわななくわななくおはしたるに、仁寿殿(じじゆうでん)の東面(ひんがしおもて)の砌(みぎり)のほどに、軒と等しき人のあるやうに見え給ひければ、ものもおぼえで、「身(み)のさぶらはばこそ、仰せ言(ごと)も承(うけたまは)らめ」とて、各々立ち帰り参(まゐ)り給へれば、御扇(おほんあふぎ)をたたきて笑はせ給ふに、
〈juppo〉大分夜更かしをしている殿上人たちです。午前2時の丑三つ時になって、帝はノリノリです。肝試しのルートを決めてますね。
「陣」はここでは、警護の役人が詰めている所です。「吉上」、「滝口」はそれぞれ役職名です。
「昭慶門」は道長の目指す「大極殿」の前にある門です。
「右衛門」は門の開け閉めなどを担当する人たちのことで、門が左右にあるうちの右側の門です。「承明門」はその門とは違う方向にあって、出口から別々に行けと言ってるのですね。
「宴の松原」は道隆の向かう豊楽院の手前にあったらしい松林のことのようです。「露台」は建物の一部で、屋根のない台のことですが、ここでは建物と建物の間にある渡り廊下のようなところだそうです。
このように、建物の名前やら建築様式の呼び名やらがたくさん出てくるので、地図を描こうかと思いましたが、どこまで行ったかはそんなに重要じゃないと思って描かないことにしました。
内裏図は辞書や便覧などにも載っているはずですので、お手元にある方は参照しながら3人の肝試しルートを辿ってみるのも面白いかと思います。結局、道隆が一番近い所で脱落した模様です。ほとんど外に行ってない感じですけど、なにしろ夜中の2時で平安時代ですからね〜。外には魑魅魍魎がうろついて陰陽師と戦いを繰り広げていた時代です。
それにしても、というかそんな時代だからなのか、肝試しなんてやってたんですね〜、昔の人も。物の怪と共存してた時代の肝試しは「試す」レベルでは終わらないのではないかと案じられますが、深夜に、明かりもあまりない所で、一人で行って何かして帰ってくる、という肝試しルールが1000年前から変わらずに21世紀に継承されていることに感銘を受けますよね。
残るは道長の行方だけですね。あと1回、続きます。
2014年03月04日
肝試し@
ああっ、ブログの引っ越しをしただけで2月が終わってしまいました!他にしていたのは雪かきだけです。リクエストにお応えします!お待たせいたしました。『大鏡』です。
〈本文〉
さるべき人は、とうより御心魂(みこころだましひ)のたけく、御守(おほんまも)りもこはきなめりとおぼえ侍(はべ)るは、花山院(くわさんゐん)の御時(おほんとき)に、五月(さつき)しもつやみに、五月雨(さみだれ)も過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜(よ)、帝さうざうしくやおぼしめしけむ、殿上(てんじやう)に出(い)でさせおはしまして、遊びおはしましけるに、人々物語など申し給(たま)ひて、昔おそろしかりける事どもなどに申しなり給へるに、「今宵(こよひ)こそいとむづかしげなる夜なめれ。かく人がちなるにだに、けしきおぼゆ。まして、もの離れたる所などいかならむ。さあらむ所に、一人往(い)なむや」と仰(おほ)せられけるに、「えまからじ」とのみ申し給ひけるを、入道殿(にふだうどの)は、「いづくなりともまかりなむ」と申し給ひければ、さる所おはします帝にて、「いと興(きよう)あることなり。さらば行(ゆ)け。道隆は豊楽院(ぶらくゐん)、道兼は仁寿殿(じじゆうでん)の塗籠(ぬりごめ)、道長は大極殿(だいごくでん)へ行け」と仰せられければ、よその君達(きんだち)は、便(びん)なきことをも奏(そう)してけるかなと思ふ。また、承(うけたまは)らせ給へる殿ばらは、御気色(みけしき)かはりて、益(やく)なしとおぼしたるに、入道殿は、つゆさる御気色もなくて、
〈juppo〉ちょっと長い話なので、3回くらいで描きます。1回目の今回はまだ肝試しには誰も行ってません。ミッションが告げられたところまで、ですね。
花山院については以前出家の話を描きました。この帝は在位が短くて、17歳で即位して19歳で出家してますから、今回「花山院の御時」と言ってるのは帝が17、8歳の時ってことですね。
いとやんごとなきご身分の方はヒマを持てあまして、下々の者に無体な要求を突きつけるものなのだな、と思えるシチュエーションですが、何しろ若い帝なので、大目に見てあげましょう。
「しもつやみ」は、下旬の月のない晩という意味の言葉です。
「さる所おはします帝」の「所」は具体的な場所の事ではなく、「そういうところのある帝」という意味です。この文の前に「所」が何度も出てくるので、ややこしいですよね。
「豊楽院」、「仁寿殿の塗籠」、「大極殿」はそれぞれ、帝の住まいであった内裏の近所の建物です。「殿上の間」は、内裏の中の、清涼殿の中にある、部屋のことです。
いつでもやる気の道長の何気ない一言のせいで、とばっちりを食った形の道隆・道兼の運命やいかに!?
続きます。
〈本文〉
さるべき人は、とうより御心魂(みこころだましひ)のたけく、御守(おほんまも)りもこはきなめりとおぼえ侍(はべ)るは、花山院(くわさんゐん)の御時(おほんとき)に、五月(さつき)しもつやみに、五月雨(さみだれ)も過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜(よ)、帝さうざうしくやおぼしめしけむ、殿上(てんじやう)に出(い)でさせおはしまして、遊びおはしましけるに、人々物語など申し給(たま)ひて、昔おそろしかりける事どもなどに申しなり給へるに、「今宵(こよひ)こそいとむづかしげなる夜なめれ。かく人がちなるにだに、けしきおぼゆ。まして、もの離れたる所などいかならむ。さあらむ所に、一人往(い)なむや」と仰(おほ)せられけるに、「えまからじ」とのみ申し給ひけるを、入道殿(にふだうどの)は、「いづくなりともまかりなむ」と申し給ひければ、さる所おはします帝にて、「いと興(きよう)あることなり。さらば行(ゆ)け。道隆は豊楽院(ぶらくゐん)、道兼は仁寿殿(じじゆうでん)の塗籠(ぬりごめ)、道長は大極殿(だいごくでん)へ行け」と仰せられければ、よその君達(きんだち)は、便(びん)なきことをも奏(そう)してけるかなと思ふ。また、承(うけたまは)らせ給へる殿ばらは、御気色(みけしき)かはりて、益(やく)なしとおぼしたるに、入道殿は、つゆさる御気色もなくて、
〈juppo〉ちょっと長い話なので、3回くらいで描きます。1回目の今回はまだ肝試しには誰も行ってません。ミッションが告げられたところまで、ですね。
花山院については以前出家の話を描きました。この帝は在位が短くて、17歳で即位して19歳で出家してますから、今回「花山院の御時」と言ってるのは帝が17、8歳の時ってことですね。
いとやんごとなきご身分の方はヒマを持てあまして、下々の者に無体な要求を突きつけるものなのだな、と思えるシチュエーションですが、何しろ若い帝なので、大目に見てあげましょう。
「しもつやみ」は、下旬の月のない晩という意味の言葉です。
「さる所おはします帝」の「所」は具体的な場所の事ではなく、「そういうところのある帝」という意味です。この文の前に「所」が何度も出てくるので、ややこしいですよね。
「豊楽院」、「仁寿殿の塗籠」、「大極殿」はそれぞれ、帝の住まいであった内裏の近所の建物です。「殿上の間」は、内裏の中の、清涼殿の中にある、部屋のことです。
いつでもやる気の道長の何気ない一言のせいで、とばっちりを食った形の道隆・道兼の運命やいかに!?
続きます。
2013年12月16日
宣旨くだりぬ
タイトルが違いますが、前回の続きです。
〈本文〉
されば、上の御局(みつぼね)にのぼらせ給ひて、「こなたへ」とは申させ給はで、われ夜の御殿(おとどお)に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。いと久しく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸をおしあけて、出でさせ給ひける御顔は赤みぬれつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑(ゑ)ませ給ひて、「あはや、宣旨くだりぬ」とこそ申させ給ひけれ。いささかの事だにこの世ならず侍るなれば、いはんや、かばかりの御有様は、人のともかくもおぼしおかむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひ申させ給はまし。その中にも、道理すぎてこそは、報じ奉りつかうまつらせ給ひしか。御骨をさへこそはかけさせ給へりしか。
〈juppo〉前回申し上げました通り、『関白の宣旨』をというリクエストでしたので、何しろ宣旨がくだるところまでは描かなければと思い、この章まで描きました。前回の分と合わせて試験範囲だった方、今回の方がむしろ試験のメインだったという方、多分もう試験は終わっていることでしょうから、お詫びいたします。遅れてすみませんでした。
そういう訳で、ついに道長に宣旨がくだりました。これで晴れて関白ってヤツになれるらしいです。どれほどの快挙なのかよくわかりませんが、女院が涙で顔をつやめかせるほどですから、そうとうお目出度いことなのでしょうね。
女院の力添えで関白になった道長は恩返しを心に誓い、以降恩を返し続けたようです。
最後のコマで女院の骨を「かけさせ給ひ」というのは、首にかけたらしいんですけど、描いてから「こんなかけ方ってある?骨壺を首から下げたくらいなのでは?」と不安になりました。
でも、道理を超えるレベルの報恩なんですよね。中でも、というくらい際立った振る舞いについての叙述のようなので、こんな感じでよいのでしょうか。まぁ、逸話ですし、実際道長がそんな事をしたかどうかも確定的ではないようなので。
ともかく、試験が終わった皆さん、お疲れ様でした!
ホッとして風邪などひいてないと良いのですが。試験休み、冬休みは是非エンジョイしてくださいね〜。
ところで先日、ふとしたことから浅草に行って来ました!20年ぶりくらいに浅草寺仲見世を歩いたんですけど、あまりにも人だらけなのに圧倒されました。20年前はこんなじゃなかった。駅前に人力車もあんなに停まってなかった・・と、浦島気分で参詣しました。
今年は、東京タワーに行き、両国国技館で相撲を見、この度久々に浅草に詣でたりと、1年かけて東京見物した年でした。そんな中、東京スカイツリーにはまだ行った事がないんですね。まだまだまだ混んでいて行列に並びに行くだけだと思うと、足が向かないんですよね。まだ混んでいる間に、横浜ランドマークタワーで今さら展望を楽しむのはどうだろう、なんてちょっと考えたりしています。
〈本文〉
されば、上の御局(みつぼね)にのぼらせ給ひて、「こなたへ」とは申させ給はで、われ夜の御殿(おとどお)に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。いと久しく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸をおしあけて、出でさせ給ひける御顔は赤みぬれつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑(ゑ)ませ給ひて、「あはや、宣旨くだりぬ」とこそ申させ給ひけれ。いささかの事だにこの世ならず侍るなれば、いはんや、かばかりの御有様は、人のともかくもおぼしおかむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひ申させ給はまし。その中にも、道理すぎてこそは、報じ奉りつかうまつらせ給ひしか。御骨をさへこそはかけさせ給へりしか。
〈juppo〉前回申し上げました通り、『関白の宣旨』をというリクエストでしたので、何しろ宣旨がくだるところまでは描かなければと思い、この章まで描きました。前回の分と合わせて試験範囲だった方、今回の方がむしろ試験のメインだったという方、多分もう試験は終わっていることでしょうから、お詫びいたします。遅れてすみませんでした。
そういう訳で、ついに道長に宣旨がくだりました。これで晴れて関白ってヤツになれるらしいです。どれほどの快挙なのかよくわかりませんが、女院が涙で顔をつやめかせるほどですから、そうとうお目出度いことなのでしょうね。
女院の力添えで関白になった道長は恩返しを心に誓い、以降恩を返し続けたようです。
最後のコマで女院の骨を「かけさせ給ひ」というのは、首にかけたらしいんですけど、描いてから「こんなかけ方ってある?骨壺を首から下げたくらいなのでは?」と不安になりました。
でも、道理を超えるレベルの報恩なんですよね。中でも、というくらい際立った振る舞いについての叙述のようなので、こんな感じでよいのでしょうか。まぁ、逸話ですし、実際道長がそんな事をしたかどうかも確定的ではないようなので。
ともかく、試験が終わった皆さん、お疲れ様でした!
ホッとして風邪などひいてないと良いのですが。試験休み、冬休みは是非エンジョイしてくださいね〜。
ところで先日、ふとしたことから浅草に行って来ました!20年ぶりくらいに浅草寺仲見世を歩いたんですけど、あまりにも人だらけなのに圧倒されました。20年前はこんなじゃなかった。駅前に人力車もあんなに停まってなかった・・と、浦島気分で参詣しました。
今年は、東京タワーに行き、両国国技館で相撲を見、この度久々に浅草に詣でたりと、1年かけて東京見物した年でした。そんな中、東京スカイツリーにはまだ行った事がないんですね。まだまだまだ混んでいて行列に並びに行くだけだと思うと、足が向かないんですよね。まだ混んでいる間に、横浜ランドマークタワーで今さら展望を楽しむのはどうだろう、なんてちょっと考えたりしています。
2013年12月09日
道長と東三条女院
おはようございます。珍しく早朝の更新です。リクエストにお応えしています。
〈本文〉
女院(にようゐん)は、入道殿をとりわき奉らせ給ひて、いみじう思ひ申させ給へりしかば、帥殿(そちどの)はうとうとしくもてなさせ給へりけり。帝、皇后ノ宮をねんごろにときめかさせ給ふゆかりに、帥殿はあけくれ御前にさぶらはせ給ひて、入道殿をばさらにも申さず、女院をもよからず、ことにふれて申させ給ふを、おのづから心得やせさせ給ひけむ、いと本意(ほい)なきことにおぼしめしける、ことわりなりな。入道殿の世をしらせ給はむことを、帝いみじうしぶらせ給ひけり。皇后ノ宮、父おとどおはしまさで、世の中をひきかはらせ給はむことを、いと心ぐるしうおぼしめして、粟田殿にもとみにやは宣旨(せんじ)くださせ給ひし。されど、女院の道理のままの御事をおぼしめし、また帥殿をばよからず思ひ聞こえさせ給うければ、入道殿の御事をいみじうしぶらせ給ひけれど、「いかでかくはおぼしめし仰せらるるぞ。大臣超えられたることだに、いといとほしく侍りしに、父おとどのあながちにし侍りしことなれば、いなびさせ給はずなりにしにこそ侍れ。粟田のおとどにはせさせ給ひて、これにしも侍らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむいと便(びん)なく世の人もいひなし侍らむ」など、いみじう奏せさせ給ひければ、むづかしうやおぼしめしけむ、後にはわたらせ給はざりけり。
〈juppo〉相変わらず人物関係がややこしいので、相関図を入れておきます。
『関白の宣旨』でリクエストをいただきましたが、手元にある訳本にはそういう章がなく、この「道長と東三条女院」と「宣旨くだりぬ」という2タイトルで、道長の宣旨について述べられているようなので、その2編を描くことにしようと思います。
そういう訳で、まだ宣旨はくだっておりません。宣旨というのは人事の辞令みたいなもののようです。ここでは粟田殿や道長を関白にする命令のことですね。
女院の詮子は実は出家しているので女院という称号がついています。その女院は道長の姉で帥殿の叔母、ということになりますが、断然道長びいきのようで、早く宣旨をくだせ、と息子の帝をせっついているところで終了です。
続きにあたる「宣旨くだりぬ」は近日中に。テストに間に合ったでしょうか。
〈本文〉
女院(にようゐん)は、入道殿をとりわき奉らせ給ひて、いみじう思ひ申させ給へりしかば、帥殿(そちどの)はうとうとしくもてなさせ給へりけり。帝、皇后ノ宮をねんごろにときめかさせ給ふゆかりに、帥殿はあけくれ御前にさぶらはせ給ひて、入道殿をばさらにも申さず、女院をもよからず、ことにふれて申させ給ふを、おのづから心得やせさせ給ひけむ、いと本意(ほい)なきことにおぼしめしける、ことわりなりな。入道殿の世をしらせ給はむことを、帝いみじうしぶらせ給ひけり。皇后ノ宮、父おとどおはしまさで、世の中をひきかはらせ給はむことを、いと心ぐるしうおぼしめして、粟田殿にもとみにやは宣旨(せんじ)くださせ給ひし。されど、女院の道理のままの御事をおぼしめし、また帥殿をばよからず思ひ聞こえさせ給うければ、入道殿の御事をいみじうしぶらせ給ひけれど、「いかでかくはおぼしめし仰せらるるぞ。大臣超えられたることだに、いといとほしく侍りしに、父おとどのあながちにし侍りしことなれば、いなびさせ給はずなりにしにこそ侍れ。粟田のおとどにはせさせ給ひて、これにしも侍らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむいと便(びん)なく世の人もいひなし侍らむ」など、いみじう奏せさせ給ひければ、むづかしうやおぼしめしけむ、後にはわたらせ給はざりけり。
〈juppo〉相変わらず人物関係がややこしいので、相関図を入れておきます。
『関白の宣旨』でリクエストをいただきましたが、手元にある訳本にはそういう章がなく、この「道長と東三条女院」と「宣旨くだりぬ」という2タイトルで、道長の宣旨について述べられているようなので、その2編を描くことにしようと思います。
そういう訳で、まだ宣旨はくだっておりません。宣旨というのは人事の辞令みたいなもののようです。ここでは粟田殿や道長を関白にする命令のことですね。
女院の詮子は実は出家しているので女院という称号がついています。その女院は道長の姉で帥殿の叔母、ということになりますが、断然道長びいきのようで、早く宣旨をくだせ、と息子の帝をせっついているところで終了です。
続きにあたる「宣旨くだりぬ」は近日中に。テストに間に合ったでしょうか。
2013年12月06日
雲林院の菩提講A
続きです。ちょっぴりです。
〈本文〉
主(ぬし)はその御時の母后(ははきさい)の宮の御方(おんかた)のめしつかひ高名(かうみやう)の大宅(おほやけ)の世継(よつぎ)とぞいひ侍りしかしな。されば、主の御年(みとし)は、おのれにはこよなくまさり給へらむかし。みづからが小童(こわらは)にてありし時、主は二十五、六ばかりのをのこにてこそはいませしか」といふめれば、世継、「しかしか、さ侍りしことなり。さても、主の御名(みな)はいかにぞや」といふめれば、「故太政大臣殿にて元服つかまつりし時、『きむぢが姓(しやう)はなにぞ』と仰せられしかば、『夏山となむ申す』と申ししを、やがて繁樹(しげき)となむつけさせ給へりし」などいふに、いとあさましうなりぬ。
〈juppo〉あっという間に年の瀬です。高校生の皆さんはテスト中でしょうか。
前回登場したじじい2人が名乗り合っている今回です。
よぼよぼのじじいは大宅世継という名前です。年下の、ややよぼよぼのじじいは夏山繁樹というそうです。名前だけ聞くと、イケメンライダー系俳優みたいですよね〜。
姓が夏山なので、夏の山なら木が繁ってるよね、と大臣にその場で名前をつけられたんですね。
世継じじいの経歴で、「その御時の母后の・・・」と「の」だらけの文が出てきますが、結構そのまま訳しちゃいましたが、要するにその時の帝のお母さんが住んでいた御殿で働いていた人、という意味です。
今回でこの章は終了で、結局じじい達の自己紹介で終わっていますが、この次の章で2人の年齢が明らかになるんです。それぞれ何歳なのかここでは明かしませんが、化け物みたいな尋常じゃない年齢です。超高齢化と言われる21世紀もビックリな。
最後に、端で聞いている名もない侍がビックリしてるのも、2人が話している内容があまりに昔の出来事なので「えっ、その時の人がここに!?」という驚きのようです。
ところで、ここに来て『大鏡』のリクエストが立て続いておりまして、お預けになっている『若紫』には当分戻れそうにありません。
私は高校生の時『大鏡』を古文の授業で習った覚えがないんですけど、高校生ってこんな難しいお話を読むんだなぁ〜と感心しています。
テスト中の高校生の皆さん、乾燥には気をつけて勉強頑張ってください。
〈本文〉
主(ぬし)はその御時の母后(ははきさい)の宮の御方(おんかた)のめしつかひ高名(かうみやう)の大宅(おほやけ)の世継(よつぎ)とぞいひ侍りしかしな。されば、主の御年(みとし)は、おのれにはこよなくまさり給へらむかし。みづからが小童(こわらは)にてありし時、主は二十五、六ばかりのをのこにてこそはいませしか」といふめれば、世継、「しかしか、さ侍りしことなり。さても、主の御名(みな)はいかにぞや」といふめれば、「故太政大臣殿にて元服つかまつりし時、『きむぢが姓(しやう)はなにぞ』と仰せられしかば、『夏山となむ申す』と申ししを、やがて繁樹(しげき)となむつけさせ給へりし」などいふに、いとあさましうなりぬ。
〈juppo〉あっという間に年の瀬です。高校生の皆さんはテスト中でしょうか。
前回登場したじじい2人が名乗り合っている今回です。
よぼよぼのじじいは大宅世継という名前です。年下の、ややよぼよぼのじじいは夏山繁樹というそうです。名前だけ聞くと、イケメンライダー系俳優みたいですよね〜。
姓が夏山なので、夏の山なら木が繁ってるよね、と大臣にその場で名前をつけられたんですね。
世継じじいの経歴で、「その御時の母后の・・・」と「の」だらけの文が出てきますが、結構そのまま訳しちゃいましたが、要するにその時の帝のお母さんが住んでいた御殿で働いていた人、という意味です。
今回でこの章は終了で、結局じじい達の自己紹介で終わっていますが、この次の章で2人の年齢が明らかになるんです。それぞれ何歳なのかここでは明かしませんが、化け物みたいな尋常じゃない年齢です。超高齢化と言われる21世紀もビックリな。
最後に、端で聞いている名もない侍がビックリしてるのも、2人が話している内容があまりに昔の出来事なので「えっ、その時の人がここに!?」という驚きのようです。
ところで、ここに来て『大鏡』のリクエストが立て続いておりまして、お預けになっている『若紫』には当分戻れそうにありません。
私は高校生の時『大鏡』を古文の授業で習った覚えがないんですけど、高校生ってこんな難しいお話を読むんだなぁ〜と感心しています。
テスト中の高校生の皆さん、乾燥には気をつけて勉強頑張ってください。