2010年12月30日

忘れ貝

リクエストにお応えします。『土佐日記』です。
〈本文〉
 四日(よか)。かぢ取り、「今日、風雲の気色(けしき)はなはだあし。」と言ひて、船出(い)ださずなりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。このかぢ取りは、日もえはからぬかたいなりけり。この泊まりの浜には、くさぐさのうるはしき貝・石など多かり。
かかれば、ただ昔の人をのみ恋ひつつ、船なる人のよめる、

 寄する波うちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝下(お)りて拾はむ

と言へれば、ある人の堪(た)へずして、船の心やりによめる、

 忘れ貝拾ひしもせじ白珠(しらたま)を恋ふるをだにもかたみと思はむ

となむ言へる。女児(おんなご)のためには、親幼くなりぬべし。「珠ならずもありけむを。」と人言はむや。
されども、「死じ子、顔よかりき。」と言ふやうもあり。なほ同じ所に日を経(ふ)ることを嘆きて、ある女のよめる歌、

 手をひでて寒さも知らぬ泉にぞ汲(く)むとはなしに日ごろ経(へ)にける

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〈juppo〉皆さん、今年もお世話になりました。2010年最後の古文は『土佐日記』です。

 『土佐日記』は「帰京」で一旦終了しましたが、すっ飛ばした道中の1エピソードが今回の「忘れ貝」です。

 「馬のはなむけ」のとき「和泉の国までは」無事に着きますように、と祈っていたその、和泉の国まで来ています。無事に四国から本州に渡った模様です。
 
 余談ですが、内容が内容なので、「和泉の国」が「黄泉の国」に見えたりします。
 
 和泉の国には1月29日に着いたらしいです。日記の日付が2月4日ですから、その間この辺の浜でぶらぶらしている訳で、ヒマを持て余すとどうしても思い出に耽ってしまうのが人間と言うものですね。

 忘れ貝というのは、拾うと人を想う苦しさを忘れさせてくれる、という貝なんだそうです。忘れな草とは逆の意味合いですね。この後のエピソードには忘れ草というのも出てくるらしいですが。

 亡くなった子を想い続ける苦しさから解放されたい、と言う妻と、いつまでも想い続けることがその子の形見であるのだ、という夫。それだけの哀しみであるのでしょうし、もちろんそう簡単に忘れることなどできないでしょうね。
 私も、亡くなった人のことは忘れないでいることが供養になるというか、残された者の務めでもあるように思います。ですから私も、忘れ貝は拾いません。

 「死じ子、顔よかりき」とはその頃よく言われたことわざらしいです。「早く亡くなった子ほど、可愛かったし良い子だったと思えるんだよね。」と、よく言っていたのでしょう。今でもそうですね。


 
 今年はいろいろあって、更新がたびたび滞ってしまいました。反省しています。
 訪問し続けてくださった方、励ましてくれた皆さん、本当にありがとうございました。ブログをやっていて良かったです。

 来年はもっとたくさんの作品を紹介出来たらいいな、と思っています。「思ってるだけか!」とツッこまれないよう頑張ります。



 皆さんにとって来年も、もっともっと良い年でありますように。
posted by juppo at 16:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 土佐日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月11日

帰京A

続きです。完結編です。
〈本文〉
大方(おおかた)のみな荒れにたれば、「あはれ。」とぞ人々言ふ。思ひ出(い)でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女児(おんなご)の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人(ふなびと)もみな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきに堪(た)へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、

 生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ

とぞ言へる。なほ飽(あ)かずやあらむ、またかくなむ。

 見し人の松の千年(ちとせ)に見ましかば遠く悲しき別れせましや

忘れがたく、口惜(くちお)しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破(や)りてむ。

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〈juppo〉前回の記事を書き終わって保存しようとした途端、システムエラーで記事が全部消え去る、という事件が発生しました。話にはよく聞いていましたが、我が身に起こるとは。前世紀の遺物のiMacを使っているので、今まで起きなかったのが逆に不思議なのかも知れませんが。

 

 『土佐日記』の最終回です。最後の日記に記されたのは、亡くなった娘のことでした。

 その娘は、この家で生まれていたのですね。赴任地の土佐で亡くしたのですが、そういう状況で家に帰って来るのは辛いでしょうね。懐かしい我が家に戻ってみても、何もかもが元通りにはならない、と思い知らされるのですから。

 全体を通して『土佐日記』は土佐から京へ帰るまでの紀行文になっているのですが、紀貫之がこれを書くことで最も忘れないでいたかったことはやっぱり娘のことだったのかな、と思いながら描きました。


 悲しい最終回ですが、最後の「とく破りてむ」というのは、「日記なんで、誰にも見せるつもりはないから」という体を取っていますが実はそれは演出で、読者を意識してのオチになっているようです。

 感傷に過ぎた締めになりそうだったので、ちょっとライトに結びたかったのかも知れません。


 この日記が書かれたのは935年頃だそうです。千年以上経ってもこうして読まれているとは、貫之さんも想像だにしていなかったでしょうね。

 千年後の私たちから見れば、千年前でも子を亡くした親の気持ちは同じなのだなぁ、なんてことに素直に感動できますよね。そういう意図はなかったにしろ、千年も前にこんな日記を書いてくれた貫之さんに感謝、ですね。
posted by juppo at 23:09| Comment(8) | TrackBack(0) | 土佐日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

帰京@

リクエストにお応えします。土佐日記、2月16日後半です。

〈本文〉夜ふけて来れば、所々も見えず。京(きょう)に入(い)り立ちてうれし。家に至りて、門(かど)に入るに、月明(あ)かければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、言ふかひなくぞ、こぼれ破(や)れたる。家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。中垣(なかがき)こそあれ、ひとつ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、便りごとに、ものも絶えず得(え)させたり。こよひ
「かかること。」と声高(こわだか)にものも言はせず。いとはつらく見ゆれど、心ざしはせむとす。
 さて、池めいてくぼまり、水つける所あり。ほとりに松もありき。五年(いつとせ)六年(むとせ)のうちに千年(ちとせ)や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。今生(お)いたるぞまじれる。

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〈juppo〉土佐日記は『門出』から時系列を追って順に描いておりましたが、リクエストをいただきましたので急遽途中をすっ飛ばして最後の日をお届けします。

 私の手元にある訳本では、この日の日記は『入京』というタイトルで内容がもっと長いのですが、全部描こうかどうしようか迷った挙げ句、おそらく教科書にはこの後半部分しか載っていないんじゃないかな、と勝手に判断して半分にしました。

 前半部分が読みたい、すっ飛ばした途中が読みたい、と思った方はしばらくお待ちください。とりあえず完結させてしまってから戻ります。

 私としては、こちらはタイトルにある通り高校古文のブログなので、高校生(を含む学生の方)が読みたいものから描く、というスタンスを取りたいと思います。

 今ここを読んでいる学生の皆さんも、順序に関係なくリクエストをお寄せくださいね。すぐに対応出来るとは限りませんが。



 今回描かなかった前半部分は、言うまでもなく京に入ってから家に着くまでの道行きです。
 
 そしてこの部分で、紀貫之さんは五年だか六年だか千年だか離れていた自宅にやっと帰って来たのです。

 隣の人に留守を頼んで行ったのに、あまりにヒドイ保存状態に絶句している所です。

 日記だからなのか、隣の人のことなのに、包み隠さない心情を綴っていますよねー。日記だから、隣の人が読むことを想定していないんでしょう。実際、隣の人の目には触れなかったのでしょうか。
 貫之さんの、帰京後の近所付き合いが心配になります。

 言うだけ言っておいて「心ざしはせむとす」なんて書いているのが、真面目で面白いですけどね。


 もう1回だけ続きます。近日中にお届け出来ればと思います。




 ところで先月、私はTSUTAYAで週に5本DVDを借りていました。「こんなことではいけない。」と思いつつ、ただでさえ忙しいのに、というよりこんなことしてるから忙しかったんですが、ひたすら視聴に追われる日々でした。
 最近やっと減らして今2本です。

 何をそんなに見ていたのか、の話はまたいずれ。
posted by juppo at 19:49| Comment(12) | TrackBack(0) | 土佐日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月17日

浦戸での船出

土佐日記、続きです。

〈本文〉
 守の館の人々の中に、この来たる人々ぞ、心あるやうには、言はれほのめく。
 かく別れがたく言ひて、かの人々の、口網ももろもちにて、この海辺にて、になひ出だせる歌、

 惜しと思ふ人やとまると葦鴨のうち群れてこそ我は来にけれ

と言ひてありければ、いといたくめでて、行く人の詠めりける。

 棹(さを)差せど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな

と言ふ間に、かぢ取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、早く往(い)なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし。」と騒げば、船に乗りなむとす。

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〈juppo〉いつだったか忘れてしまったくらい前に描いた『亡児の追憶』の続きなんです。
 前回の終わりの方で、お別れに駆け付けた皆さんとのお別れのシーンです。「この来たる人々」というのが、その駆け付けた人たちのことで、「同じ役人をやっていても、こういう時に来てくれる人とそうでない人がいるよね〜」てなことを口走ってしまってから、おっと心の声が外に出てしまったぞ、と口をつぐんでいるんですね。

 大勢でお見送りに来て、大勢で歌を詠んで送る、セレモニーとしては泣ける筋立てです。

 そんないいシーンなのに、所詮、船頭風情には理解してもらえなかったと。

 気の利かない船頭のおかげで、重い腰を上げて旅を続けることが出来た訳ですけど。


 いつの時代にもお別れに来る人と来ない人、KYな人はいたのだな、ということが良く分かるお話ですね。
posted by juppo at 21:41| Comment(0) | TrackBack(1) | 土佐日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月21日

亡児の追憶

土佐日記、12月27日分です。

〈本文〉
 二十七日(はつかあまりなぬか)。大津より浦戸(うらど)をさして漕ぎ出(い)づ。かくあるうちに、京にて生まれたりし女児(おんなご)、国にてにはかに失せにしかば、このごろの出で立ちいそぎを見れど、なにごとも言はず。京へ帰るに、女児のなきのみぞ悲しび恋ふる。ある人々もえ堪へず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、

 都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり

 またある時には、

 あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける

と言ひける間に、鹿児(かこ)の崎といふ所に、守(かみ)の兄弟(はらから)、またこと人、これかれ酒なにともて追ひ来て、磯に下りいて別れがたきことを言ふ。

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〈juppo〉哀しいですね。切ない話です。『土佐日記』は単なる紀行文だったのではなく、筆者紀貫之が亡くした子供を想って残した日記でもあったのですね。
 
 亡くなった事を忘れて(「忘れつつ」の「つつ」は繰り返して行うという意味です。)、「どこ?」と聞いてしまう場面、泣かされますよね。
 私の場合は猫なんですけど、昔、飼っていた猫が死んでしまった時、夢に見て「あー、やっぱり生きてたんだ。死んだと思ったのは夢だったんだ。」と夢の中で思っている、なんて事がありました。
  
 幼い子供を亡くした親の気持ち、子供のない私には量りかねるものがあるのですが、子供があったとしても、想像を超える心境なのではないでしょうか。

 夏目漱石が、五女ひな子が1歳か2歳で急死した時、「死んだ子が一番可愛かったように思える」「他の子は皆いらないように思える」と、いうような事を何かに書いていたのを思い出しました。
 皆さん、くれぐれも命を大切に。
posted by juppo at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 土佐日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月03日

馬のはなむけ

土佐日記、12月22日から24日分です。

〈本文〉
 二十二日(はつかあまりふつか)に、和泉の国までと、平らかに願(がん)立つ。藤原の言実(ときざね)、船路なれど、馬(むま)のはなむけす。上(かみ)中(なか)下(しも)、酔ひあきて、いとあやしく、潮海(しおうみ)のほとりにて、あざれ合へり。
 二十三日(はつかあまりみか)。八木の康教(やすのり)といふ人あり。この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。これぞ、たたはしきやうにて、馬のはなむけしたる。守(かみ)からにやあらむ、国人の心の常として、今はとて見えざなるを、心ある者は恥ぢずになむ来ける。これは、ものによりてほむるにしもあらず。
 二十四日(はつかあまりよか)。講師(こうじ)、馬のはなむけしに出でませり。ありとある上下、童(わらわ)まで酔ひしれて、一文字(ひともじ)をだに知らぬ者しが、足は十文字(ともじ)に踏みてぞ遊ぶ。

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〈juppo〉『土佐日記』は第1日目を描いたまま、すっかりご無沙汰してしまっていました。今回は続く3日間の出来事なんですけど、まだ出発してないんですね。3日に亘って飲めや歌えの大騒ぎを繰り広げていただけという・・・。船旅は何が起こるか分からないので、出発前の気合いの入れ方が違うのでしょう。
 
 「はなむけ」という言葉は今でも旅立つ人へ向けて使いますよね。漢字で書くと「花向け」なのかな、と思われそうですが、馬の鼻を向けることから来てるので「花」ではなく「鼻」のことなんですね。見送る人が旅立つ人の馬の鼻を、目的地方向に向けるという儀式があったらしいです。漢字で書くと「餞」なんですけどね。
 そして、ここでの「はなむけ」は送別会のような宴のことなんだそうです。2コマ目は、船で行くのに「(馬の)はなむけ」なんちゃって、というシャレになっているんです。

八木の康教という人が、役人仲間でもないのに見送りに来てくれたのを「国司の人柄の賜かな」と言っている訳ですが、そう言っているのはその人柄の持ち主なんですよね。女性を装って書いた日記なので、自分の事を他人事のように書いてるのがちょっと紛らわしい、というかちょっと自慢ですよね、その部分。
posted by juppo at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 土佐日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月24日

門出

土佐日記の第1日目、12月21日分です。

〈本文〉
 男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。
それの年の十二月(しわす)の二十(はつか)余り一日(ひとひ)の日、戌(いぬ)の時に門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。
 ある人、県(あがた)の四年(よとせ)五年(いつとせ)果てて、例のことども皆し終へて、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろよくくらべつる人々なむ、別れがたく思ひて、日しきりに、とかくしつつののしるうちに、夜ふけぬ。

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〈juppo〉土佐日記の作者は紀貫之です。男なんですけど、女のふりをしてこの日記を書きました。ネカマです。いわゆる。
 作中の「ある人」というのが貫之自身のことで、土佐の國の役職を解かれてから京へ帰るまでの道中の記録を日記にしたものです。

 どうして女のふりをしたのかというと、当時日記というのは男性が仕事の記録などのために、漢字で書くのが当たり前だったのですが、敢えてかな文字で書きたかったかららしいです。かな文字は女性が使う文字だったのですね。かな文字で書く事で貫之さんは自分の思いや出来事を自然な感じで自由に書きたかった、とされています。この後、女性たちがこれに倣って日記を書くようになります。そして現代のブログにまで綿々と受け継がれる文化を築いた、日記のパイオニアなんですよね。貫之さん、ありがとう。ふりをしてるからって思いっきりカマキャラにしちゃってごめんなさい〜。
 
posted by juppo at 23:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 土佐日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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