2018年09月16日

市振A

続きです。そんなにお待たせしませんでしたよね?
〈本文〉
あした旅立つに、我々に向かひて、「行方知らぬ旅路の憂さ、余りおぼつかなう悲しくはべれば、見え隠れにも御跡を慕ひはべらん。衣の上の御情けに大慈(だいじ)の恵みを垂れて結縁(けちえん)せさせたまへ。」と涙を落とす。
「ふびんのことにははべれども、我々は所々にてとどまるかた多し。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護必ずつつがなかるべし。」と言ひ捨てていでつつ、哀れさしばらくやまざりけらし。

 一つ家(や)に遊女も寝たり萩(はぎ)と月

曽良(そら)に語れば書きとどめはべる。
ichiburi2.jpeg
〈juppo〉昨夜、隣の部屋の遊女たちの話し声を聞きながら寝た、そのあくる朝です。
その遊女たちが「新潟という所の遊女だった」ということがわかっていたので、今回、遊女たちのセリフは現代語に訳してからさらに新潟弁に翻訳してみました。と言っても、私は新潟弁ネイティブでないので、調べ調べ訳したもので、違和感があったらご指摘ください。

 同行してきた男は新潟に返してしまったようで、女二人で知らない道を行くのが心細いと芭蕉さんたちに「付いて行っていいか」とお願いしてるんですけど、ここでは彼女らは芭蕉さんたちのことをお坊さんだと思っています。芭蕉さんたちが黒っぽい着物を着ていたからだそうです。
 そう言われても、俳句を詠みつつあちこち寄り道するので一緒には行けない、と芭蕉さんはつれなく断っています。じゃあ一緒に行きましょう、てなことになったら『奥の細道』の物語が後半だいぶ変わったものになっていたかもしれません。
 つれなく断っておきながら、哀れな遊女たちに同情を禁じ得ない芭蕉さんのようです。

 萩と月の句は、遊女と自分とを対比させて詠んだなんて説もあるようです。

 芭蕉さんが遊女と別れ際「無事に」という意味で「つつがなかるべし」と言っている、「つつがなし」という語ですが、漢字では「恙無し」と書きます。「恙」はもともと病気や災難など忌まわしいことを意味する言葉で、そんなことなく平穏に暮らす様が「恙無し」なのですね。
 ところで、ツツガムシという虫がいて、これに刺されると死にそうに苦しむそうで、それが「つつがなし」の語源だという説もあるようですが、それは違うんですって。
 虫にに刺されたとは分からないまま苦しんでいて、ツツガムシという妖怪のしわざだろうと呼んでいたのが、やがて原因がこの虫だ、ということがわかってからその虫(ダニの一種)を「ツツガムシ」と名付けたのだそうです。すでに「恙」という語があったからなんですね。
 私の友達が昨年末にツツガムシに刺されて、お正月を丸々病院で過ごしたとか悲惨な体験を聞いたのでこの話を特に書いておこうと思いました。症例自体あまりにも珍しいので、刺されたところを写真に撮られたとか、研究材料になっちゃったそうです。怖いですね〜。皆さんもツツガムシ含めダニには要注意、でつつがない毎日をお過ごしください。
posted by juppo at 22:24| Comment(4) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月08日

市振@

リクエストにお応えします。久しぶりの『奥の細道』です!
〈本文〉
 今日は親知らず・子知らず・犬もどり・駒(こま)返しなどいふ北国(ほくこく)一の難所を超えて疲れはべれば、枕引き寄せていねたるに、一間(ひとま)隔てて表の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男(おのこ)の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて、明日はふるさとに返す文したためて、はかなき言づてなどしやるなり。
「白波の寄するなぎさに身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因いかにつたなし。」
と、もの言ふを聞く聞く寝入りて、
ichiburi1.jpeg
〈hippo〉市振は「いちふり」ではなく「いちぶり」と読むのですね。新潟県の地名なんですね。
市振駅はえちごトキめき鉄道(トキてつ)日本海ひすいラインの親不知の隣の駅で、その間8.6qだそうですが、「奥の細道」の世界ではこの間は20qに渡る難所であると解説されています。便利な世の中になってよかったですが、芭蕉さんはもうクタクタな模様です。
 1コマ目に道の駅親不知ピアパークをついでに書きこんだのは純粋に私の興味を引いたからに他なりません。私は鉄旅よりドライブ派なので、道の駅情報を目にすると「いつか行きたい」思いに駆られます。
 何しろ、芭蕉さんの時代には当然鉄道もなく、ここを通過するのは難行苦行だったんですね。犬もどりとか駒返しという地名も、犬や馬にも越えられない険しさを表しているのでしょうか。

 「一間隔てて」は、一部屋あけてということではないようです。要するに、隣の部屋の話し声を聞いてるんですね。
 この時代、お伊勢参りはとてもポピュラーな行楽(?)で、誰でも一生に一度は行くというほどだったそうです。この遊女たちは、解説によると主人には無断で旅をしているとかで、そういうのを「抜け参り」と言ったそうですが、お伊勢さんに行くのは特別なことなので、無断で出かけても咎められることなく帰ってこられたんだそうですよ。そんなことなら一言断って出ても良さそうな気もしますけどね。
 この年、元禄2年(1689年)は伊勢神宮の式年遷宮に当たっていて、そういえば芭蕉さんもこの後大垣にたどり着いてから遷宮を見に行こうと、また船に乗ったなんてくだりがありましたね。

 遊女がしたためている手紙の「白波の・・・」という文章は、もともと『新古今集』に
 白波の寄するなぎさに世を尽くすあまの子なれば宿も定めず
という歌があり、これを詠んだのが遊女だったと伝わってるそうで、芭蕉さんがそれをパク、もとい、オマージュに作ったようです。そもそも遊女が隣の部屋に泊まっていたこと自体、芭蕉さんの創作だと見られているみたいです。でもそんな事実は気にしないで読んだ方が面白いですよね。

 そんなに長くないのですが、2回で描きます。続きは多分、わりとすぐに!
posted by juppo at 03:58| Comment(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月26日

大垣

も一つリクエストで。奥の細道です。
〈本文〉
 露通(ろつう)もこの港までいで迎ひて、美濃(みの)の国へと伴ふ。駒(こま)に助けられて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来たりあひ、越人(えつじん)も馬を飛ばせて、如行(じょこう)が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、そのほか親しき人々、日夜とぶらひて、蘇生(そせい)の者に会ふがごとく、かつ喜びかついたはる。旅のものうさもいまだやまざるに、長月(ながつき)六日になれば、伊勢の遷宮(せんぐう)拝まんと、また舟に乗りて、

 蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ


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〈juppo〉冬眠から覚めて、世間の冷たい風にさらされていたら風邪をひきました。おそらくこのまま、花粉症のピークに突入するものと思われます。

 『奥の細道』はこの『大垣』で終了です。前回の『立石寺』では東北方面を旅していた芭蕉さんですが、その後、日本海側を着々と南下して、最後は岐阜県大垣市までやって来ました。そこからさらに旅を続ける雰囲気を残して終わっています。

 庄とは、昔の荘園の名前が残った土地のことだそうです。


 露通、越人、如行、前川、荊口さんらは皆さん芭蕉の門人、つまり弟子の面々です。皆さんこちらの地方に住んでいる人たちです。前川子の「子」は敬称で「前川さん」みたいな意味ですが、荊口父子の「父子」は父と子ってことです。荊口さんも、その息子も芭蕉さんの弟子だったんですね。


 それから、曽良はいつの間にか伊勢に行っていてここでまた合流したことになっていますね。実は曽良は途中、加賀の山中温泉で体調を崩し、芭蕉さんと別れて伊勢で療養していたのだそうです。

 曽良が大垣に着いたのが九月三日。その三日後の六日にはもう芭蕉さんの旅の虫がむずむずして舟に乗って伊勢神宮に向かっています。


 伊勢の遷宮というのは、伊勢神宮では二十一年ごとに社殿を新築してご神体を新しい社殿に移す儀式があるんだそうです。ちょうどこの年が、その遷宮の年だったのですね。

 こういう好奇心があってこそ、旅人は旅に出てさまよい続けるのでしょうね。そこに二十一年に一度のチャンスが巡って来るというのも、偶然というよりは旅人・芭蕉さんに与えられたご褒美のように思えてきます。


 ここまでの、描きもらした『奥の細道』の道中は、今後追々描いて行くつもりです。
 ピンポイントで読みたい場面がおありになる方は、是非リクエストをお寄せください〜。

posted by juppo at 23:29| Comment(3) | TrackBack(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月14日

立石寺

リクエストにお答えします。奥の細道です。
〈本文〉
 山形領に立石寺(りゅうしゃくじ)といふ山寺あり。慈覚大師(じかくたいし)の開基にして、ことに清閑の地なり。
一見すべきよし人々のすすむるによつて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。岩に巌(いわお)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年ふり、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々とびらを閉ぢて物の音聞こえず。岸をめぐり岩を這(は)ひて仏閣(ぶつかく)を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ。

 閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉(せみ)の声


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〈juppo〉皆さま、明けまして、おっ・・・とー、もう14日じゃないですか。全然明けましてじゃーないですね。

 今年の年末年始は、学生さんより長いくらいの冬休みを過ごしてしまい、やっと休みが明ける頃にはもう、仕事を辞めたくなっていました。毎日毎日、寝ては食べ食べては寝て起きてる間はDVD鑑賞。ダメ人間です。

 それでも仕事があればマジメに働くA型日本人なので、ようようマトモな生活を取り戻しつつあります。そうしたらもう14日なんですもの。びっくりです。ホントに冬眠してたのかも知れないと夢うつつな気分です。

 
 そんな私に比べて、芭蕉さんは相変わらずアクティブですね。拝みたい寺が山の上だろうと崖の先だろうと、どこまでも詣でて行くのですね。もっともこの時代の人は皆そうやって拝みに行ったんでしょうけどね。

 「立石寺」は「たていしでら」と読むのかと思ったら、今は「りっしゃくじ」と読むのだそうですが、この時代には「りゅうしゃくじ」と呼んでいたそうです。


 一里はだいたい4qなので、「七里ばかり」はざっくり「28qくらい」にしてしまいました。実際に尾花沢から立石寺まで何qくらいあるのか、責任持てません。



 こんな始まり方をして先が思いやられる2010年ですが、皆さん今年もどうぞよろしくお願いいたします。
posted by juppo at 18:59| Comment(6) | TrackBack(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月28日

平泉A

続きです!
〈本文〉

 卯(う)の花に兼房(かねふさ)見ゆる白毛(しらが)かな
                           曽良

 かねて耳驚かしたるニ堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。七宝(しちぽう)散りうせて、珠(たま)のとびら風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、すでに頽廃(たいはい)空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、いらかをおほひて風雨をしのぐ。しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。

 五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂


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〈juppo〉まだ年賀状を書いていませんが、とりあえずこちらを優先します。
 12月は前半めちゃくちゃ忙しかったんですけど、後半は、もう先週頭くらいからずっとヒマです。でもヒマな時ほど、何もはかどらないものですよねー。

 今回は前回より分かりやすい内容かと思います。
 三将というのが、前回登場した藤原清衡・基衡・秀衡のことだそうで、中尊寺はこの三代の藤原の殿様を祀っているんですね。

 ところが、経堂には実際には三将の像はないんだそうです。この辺の記述には、芭蕉さんの思い違いがところどころにあるのです。

 光堂は金色堂というのが本当の名前みたいです。いろいろ詳しいことは中尊寺の観光ガイドに譲るとして、こちらのお堂には何と、実際に三将の棺(に入ったミイラ!)が現存するんだそうですよ。さらに何と、三将だけでなく、泰衡の首も保存されているらしいです。
 しかも、どのミイラが誰であるか、長い間信じられていた名前が1950年の学術調査の結果分かった事実から入れ替えられた、なんて『BONES』みたいなエピソードもあるみたいなんです。面白そうですね〜。

 四面を囲み、というのは13世紀にこの光堂を保存するために、建物を包み込む形の「鞘(さや)堂」というのを作ったのだそうです。
 そういう人為的な保存もあった訳ですが、昔ながらの光り輝くお堂に芭蕉さんは素直に感動しているのですね。何かの力が働いているような、不思議な気を感じ取ったのでしょうか。



ところで先日、当ブログを見てくださっている方から、『大鏡』の「競べ弓」の記事で、マンガの中の弓の向きが逆になっている、というご指摘をいただきました。
 ・・・どれどれ。あ〜っ、ホントだぁ〜あせあせ(飛び散る汗)

 という訳で、こっそり描き直しました。今見ても間違った絵はありません。私が気がついてないところがまだ間違っているかも知れませんが。他にお気付きの方がいたら、是非知らせてくださいね。恥ずかしいので。

 教えてくださったK先生、見つけてくれた弓道部員さん、ありがとうございました!!


 
 さらに ところで、ブリタニー・マーフィーが亡くなったニュースにはとてもショックを受けています。
『サウンド・オブ・サイレンス』とか『8mile』とか、シリアスもコメディも何でもいける女優さんだったのに。なにより本当にキュートな人だったのに。残念です。骨とアニメの日々の合間に『ラーメン・ガール』を見たばかりだったのに。私のイチ押しはこちらです。

posted by juppo at 18:57| Comment(4) | TrackBack(1) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月21日

平泉@

リクエストにお応えします。『奥の細道』です。
〈本文〉
 三代の栄耀(えいよう)一睡(いっすい)のうちにして、大門(だいもん)の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉(いずみ)が城(じょう)をめぐりて、高館のもとにて大河に落ち入る。泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口(なんぶぐち)をさしかため、夷(えぞ)を防ぐとみえたり。さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり。」と、笠うち敷きて、時のうつるまで涙を落としはべりぬ。

 夏草やつはものどもが夢の跡


hiraizumi1.jpg
〈juppo〉寒いです。どうしてこんなに寒いのか、悩んでいるうちに時間が経って、気づいたらもう年の瀬ではないですか。

 12月は師走というだけあって先生の仕事が忙しかったです。寒いだけではなく、いろいろあってブログの更新ができませんでした。

 このリクエストも2週間くらい前にいただいていたのに、やっとお応えできたのが今日です。お待たせしてスミマセンでした。

 『奥の細道』も、始めから順に描いてましたがここでちょっとすっ飛ばしました。ここまでの道中はいずれ描きます。


 すっ飛ばした間に、芭蕉さんは岩手県まで来ました。春に江戸を出発してから2ヵ月くらい経っています。それで、夏になっているんです。つはものどもが夢の跡、って有名な句ですよね〜。こんな所で詠まれていたんですね。


 藤原氏三代とは清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)と続いた藤原一族のことで、泰衡(やすひら)は秀衡の子どもだそうです。じゃあ四代じゃないのか?と思いましたか?泰衡の代で源頼朝に滅ぼされたそうなので、栄華の歴史に泰衡は入れてもらえなかったようですね。

 秀衡は亡命した義経をかくまったのだそうです。文中に義経の名前があるのはそれでです。

 結局三代で九十六年の栄華を誇ったそうです。それでも芭蕉さんがこの地を訪れる五百年以上前の出来事です。またずいぶん古いことに思いを馳せて泣いてますね、芭蕉さん。


 「一睡の夢」はご存知の方もいるかと思いますが、本当は「一炊の夢」と書きます。中国の故事が元になっています。ある若者が出世して大物になる大長編の夢を見たのですが、目覚めてみると炊いていたお粥がまだ出来上がりもしないちょっとの間のことだった、とかいう話です。


 「秀衡が跡」と「泰衡らが旧跡」とは、親子なので実は同じ屋敷跡のことを言っているのだそうです。泰衡は滅ぼされた張本人なので、名前を出すことで芭蕉さんの感じた虚しさを強調しているんですね。

 「国破れて山河あり」の詩も有名ですよね。杜甫の五言律詩、『春望』です。有名すぎるので口語訳しませんでしたが、実は『春望』の一、ニ句は

 国破山河在
 城春草木深

なので、最後のところは「草木深し」が正しいのです。
「ちょっとアレンジしました。」ってことでしょうね。

 
 それから「えぞ」ですが、解説によると「当時奥羽地方にいて朝廷や幕府に帰服しなかった人々のこと」だそうです。アイヌの人たちを含む、北の方に住んでた人たちのことですが、アイヌ人が攻めて来るということではなく、その地方にいる反体制の人たちのことを総じて呼んだのでしょう。


 ここは『奥の細道』でもっとも有名なシーンだと思うのですが、歴史的、地理的な事実がいろいろ紹介されていて、とてもマンガだけでは全てを把握するのは難しいと思います。

 私もそこらへんの知識が脆弱で、何となくで描いてしまいました。もし不足していたり間違っていたりしていたら是非ご指摘ください。何しろ平泉に行ったこともないんです。行ってみたくなりました。

 後半がまだ残っているので続きます。「夏草や」の句の後に曽良も一句詠んでいるんですけど入り切れませんでした。

 後編を、お待ちください。
posted by juppo at 21:37| Comment(3) | TrackBack(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月12日

那須

奥の細道です。
〈本文〉
 那須の黒羽(くろばね)といふ所に知る人あれば、これより野越えにかかりて、直道(すぐみち)を行かんとす。はるかに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜を借りて、明くればまた野中を行く。そこに野飼(のが)ひの馬あり。草刈るをのこに嘆きよれば、野夫(やぶ)といへども、さすがに情け知らぬにはあらず。
「いかがすべきや。されども、この野は縦横(じゅうおう)に分かれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしうはべればこの馬のとどまる所にて馬を返したまへ。」と貸しはべりぬ。小さき者ふたり、馬の跡したひて走る。ひとりは小姫(こひめ)にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

 かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名なるべし  曽良(そら)

 やがて人里に至れば、あたひを鞍壺(くらつぼ)に結び付けて、馬を返しぬ。
nasu.jpg
〈juppo〉明けたと思ったら、もう12日ですね。新年。皆さん、今年もよろしくお願いいたします。

 久しぶりの『奥の細道』です。前回埼玉県の「草加」にいた芭蕉さんは、いつの間にか栃木県の那須野に到着しています。素早いですね。隠密説が出る訳ですね。

 近道を行くはずだったのに、道に迷って一晩農家に泊まっています。暗くなって道がわからず、雨まで降ってくるなんてそりゃあ心細いですよね〜。
 
 「野夫といへども」とはちょっと上から目線の表現ですが、その、田舎者の百姓の人、親切ですよね。
 草刈り中なので一緒には行けないけど、馬を貸してやるから止まったら返してくれ、とは見上げた大雑把さです。馬はひとりで飼い主の元に帰って行くということですよね?

 渡る世間に鬼はなし、な話でした。

 「かさね」の句を詠んだのは今回、芭蕉さんではなく、同行している弟子の曽良です。『奥の細道』には時々、この曽良の句も登場します。


 「かさね」という名が優雅なので、とありますが、私は「かさね」という名は『怪談 累が淵(かさねがふち)』を思い出してちょっと怖いです。
posted by juppo at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月03日

草加

奥の細道です。

〈本文〉
 ことし、元禄二とせにや、奥羽長途(ちょうと)の行脚(あんぎゃ)ただかりそめに思ひたちて、呉天(ごてん)に白髪の恨みを重ぬといへども、耳にふれて、いまだ目に見ぬ境(さかい)、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加といふ宿(しゅく)にたどり着きにけり。痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ、身すがらにと出でたちはべるを、紙子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎ、ゆかた、雨具、墨、筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは。さすがにうち捨てがたくて、路次(ろじ)の煩(わずら)ひとなれるこそわりなけれ。

souka.jpg
〈juppo〉久しぶりの『奥の細道』です。前回、見送りの人たちと涙のお別れをしたのは千住でしたが、辿り着いた宿場はやっと草加です。

 千住から草加までは、今日では京成線を利用すると30分足らずで行けます。文明開化、ありがとう。

 当時は歩いて行くわけですから、江戸から奥羽(東北地方)に行くのが、まるで呉(中国)に行くような、つまり外国に行くのも当然なくらい遥か彼方に感じられると、そんな遠くに行って生きている間に帰って来られるのかと、芭蕉さんは不安に思っているのです。(中国の詩から呉を旅する表現なども借りて来ているようです。)

 その不安に重ねて、荷物が重くて肩が痛いのが辛いと。旅の荷物は軽いに超したことはないですが、遠くに行くのだから仕方がないですよね。頑張れ!芭蕉!
 「紙子」というのはその名の通り、和紙から作った着物だそうです。携帯用・防寒用に用いられたらしいです。

 ところで、旅をしているわけでもないのに私はいつも重い荷物を持っていて万年肩凝りです。
 いつも、荷物ダイエットしよう〜と思いながら、何でもかんでも持ち歩いてしまいます。

 誰に揉んでもらっても「(相当)こってますね〜。」と言われるのですが、自覚があまりありません。それくらいびくともしない肩凝りらしいです。自覚がないので、それほど困ってはいないんですけどね。

posted by juppo at 22:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月20日

旅立ちB

すみません、まだ続きがありました。

〈本文〉
 弥生(やよひ)も末の七日(なぬか)、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明にて光りをさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野・谷中の花のこずえ、またいつかはと心細し。むつまじき限りは宵より集ひて、舟に乗りて送る。千住(せんぢゅ)といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。

 行く春や鳥鳴き魚の目は涙

これを矢立ての初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろの影の見ゆるまではと見送るなるべし。

tabidachi3.jpg
〈juppo〉ここで、やっと旅立つんですね。芭蕉さん。あんなに行きたい思いに駆られていたのに、いざ出発となるとちょっぴり涙です。他の作品にもあるように、昔の旅は思いきった行為であったからでもあるんでしょうけどね。

 発句は「ほっく」(または「ほく」)と読み、俳句や和歌の、出だしの五・七・五のことです。
 ここでは、これから書き始める旅日記の、つまり『奥の細道』の、これが書き出しの句ですよ、ということです。

 この句を読むと「魚の目」は痛い、と連想する人が後を絶たないと思いますが、文字どおりサカナの目のことなんです。
 たったの十七文字に、旅立つ自分と過ぎ行く春の哀しさを詠み込んでいることを考えると、俳句って奥が深いですよね〜。
posted by juppo at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月11日

旅立ちA

お待たせしました。続きです。
〈本文〉
道祖神(だうそじん)の招きにあひて、取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、笠の緒(を)つけ替へて、三里に灸(きゅう)すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、

 草の戸も住み替はる代(よ)ぞ雛(ひな)の家

表(おもて)八句を庵(いほり)の柱に掛け置く。

tabidachi2.jpg
〈juppo〉たったの4コマをもったいつけてお待たせしてすみません。旅支度をととのえ、住んでいた家を人に譲っていよいよ旅立つ芭蕉さんです。
 
 三里のツボはひざ下の、外側のくぼみ辺りだそうです。ここにお灸をすえると足が丈夫になるんですって。
 
 松島は仙台のちょっと先ですね。引き続き思いばかりがかなり遠くへ先走っていますが、実は、白河の関も松島も、和歌に詠まれた有名な土地(これを、歌枕といいます)で、芭蕉は文学的観点から彼の地を思い描いているようです。

 杉風は芭蕉の弟子のひとりで、スポンサーでもあった人だそうです。この人の別宅に移ってから出発する訳ですが、別宅は深川だそうなので、旅はまだまだこれからです。その別宅の呼び名が「採茶庵(さいとあん)」だったらしいです。
 
 表八句というのは、紙を2枚重ねて二つ折りにすると8ページの冊子になりますが、その表紙部分(印刷用語でいうところの表1ですね)に書いた8句のことです。裏表紙(表4)にも8句、中の6ページに14句ずつ書いて、全部で百句を一冊に書く、なんてーことをしていたようです。


 ここで、超基本的なことですが、俳句と短歌の違いについて。

 五・七・五の十七文字で出来ているのが俳句。五・七・五・七・七の三十一文字で詠んだのが短歌(または和歌)です。
 俳句は一句、ニ句と数えますが、短歌は一首、二首と数えます。そうです。百人一首になっているのが短歌です。
 また、俳句は季語と呼ばれる、季節を表す言葉を必ず読み込むのがルールで、季語が入っていないモノは「川柳」といいます。お茶の缶なんかに書いてあるのがそれです。

 今回の、「草の戸も・・」の句では「雛」が春の季語です。
posted by juppo at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月08日

旅立ち@

奥の細道、冒頭です。
〈本文〉
 月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上(かうしゃう)の破屋(はをく)にくもの古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞(かすみ)のそらに、白河(しらかは)の関超えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、

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〈juppo〉あけましておめでとうございます。新年一本目は、新しいカテゴリでお送りします。『奥の細道』です。
 
 『奥の細道』を書いた松尾芭蕉は、伊賀の生まれであったことと、旅ばっかりしてたことから、忍者だったのではないか、という説があるそうです。本職は俳諧といって俳句を読む人で、今回中途半端に終わらせてしまったので漫画の中に俳句は入っていませんが、『奥の細道』も旅をしながら読んだ俳句が随所にちりばめられた作品です。

 俳句を読むために旅をしていたのかと思ったら、こうして読んでみると旅をしたくてたまらない人だったんですね。
 こういう人って、よくいるようでいて身近にはいませんね。少なくとも、私の知り合いにはいません。
 よくよく思い描いてみたところで、スナフキンとフーテンの寅さんしか思いつきませんでした。

 寅さんは確か行商をしながら旅をしていたので仕事も兼ねていた訳ですが、スナフキンのような旅人は、一体どうやって生計を立てているのでしょう。そんなこと言ったら、ムーミンパパやスノークは一体何をやっているのだ、という話になってしまうのですが。
 
 では芭蕉はどうやって旅費を捻出していたのでしょうか。俳句を読むのが仕事ですから、それで収入を得ていたのでしょうが、スポンサーもいたようです。そんなことは余談ですけどね。

 馬子は「まご」と読み、馬を引く仕事をする人の事です。「馬子にも衣装」の「馬子」です。「孫にも衣装」ではなかったんですよ〜。馬を引くだけの身分のやつでも良い服を着ればそれなりに見えるものだ、という意味なんです。これって差別用語ですかね?

 白河の関は、今の福島県白河のことです。またずいぶん遠いところへ思いを馳せていますね。これも忍者と呼ばれる所以でしょうか。

 続きは出来るだけ早く描きます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
posted by juppo at 00:05| Comment(5) | TrackBack(0) | 奥の細道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする