〈本文〉
あした旅立つに、我々に向かひて、「行方知らぬ旅路の憂さ、余りおぼつかなう悲しくはべれば、見え隠れにも御跡を慕ひはべらん。衣の上の御情けに大慈(だいじ)の恵みを垂れて結縁(けちえん)せさせたまへ。」と涙を落とす。
「ふびんのことにははべれども、我々は所々にてとどまるかた多し。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護必ずつつがなかるべし。」と言ひ捨てていでつつ、哀れさしばらくやまざりけらし。
一つ家(や)に遊女も寝たり萩(はぎ)と月
曽良(そら)に語れば書きとどめはべる。

〈juppo〉昨夜、隣の部屋の遊女たちの話し声を聞きながら寝た、そのあくる朝です。
その遊女たちが「新潟という所の遊女だった」ということがわかっていたので、今回、遊女たちのセリフは現代語に訳してからさらに新潟弁に翻訳してみました。と言っても、私は新潟弁ネイティブでないので、調べ調べ訳したもので、違和感があったらご指摘ください。
同行してきた男は新潟に返してしまったようで、女二人で知らない道を行くのが心細いと芭蕉さんたちに「付いて行っていいか」とお願いしてるんですけど、ここでは彼女らは芭蕉さんたちのことをお坊さんだと思っています。芭蕉さんたちが黒っぽい着物を着ていたからだそうです。
そう言われても、俳句を詠みつつあちこち寄り道するので一緒には行けない、と芭蕉さんはつれなく断っています。じゃあ一緒に行きましょう、てなことになったら『奥の細道』の物語が後半だいぶ変わったものになっていたかもしれません。
つれなく断っておきながら、哀れな遊女たちに同情を禁じ得ない芭蕉さんのようです。
萩と月の句は、遊女と自分とを対比させて詠んだなんて説もあるようです。
芭蕉さんが遊女と別れ際「無事に」という意味で「つつがなかるべし」と言っている、「つつがなし」という語ですが、漢字では「恙無し」と書きます。「恙」はもともと病気や災難など忌まわしいことを意味する言葉で、そんなことなく平穏に暮らす様が「恙無し」なのですね。
ところで、ツツガムシという虫がいて、これに刺されると死にそうに苦しむそうで、それが「つつがなし」の語源だという説もあるようですが、それは違うんですって。
虫にに刺されたとは分からないまま苦しんでいて、ツツガムシという妖怪のしわざだろうと呼んでいたのが、やがて原因がこの虫だ、ということがわかってからその虫(ダニの一種)を「ツツガムシ」と名付けたのだそうです。すでに「恙」という語があったからなんですね。
私の友達が昨年末にツツガムシに刺されて、お正月を丸々病院で過ごしたとか悲惨な体験を聞いたのでこの話を特に書いておこうと思いました。症例自体あまりにも珍しいので、刺されたところを写真に撮られたとか、研究材料になっちゃったそうです。怖いですね〜。皆さんもツツガムシ含めダニには要注意、でつつがない毎日をお過ごしください。