2019年01月22日

忠度の都落ちC

最終回でーす。
〈本文〉
 そののち世静まつて、「千載(せんざい)集」を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま、言ひおきし言の葉、今さら思ひいでてあはれなりければ、かの巻き物のうちにさりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字(みようじ)をば表はされず、故郷の花といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、よみ人知らずと入れられける。
 
 さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。
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〈juppo〉「千載集」は、1183年に作りましょうというおふれが出て、1188年に完成したということです。俊成さんの息子の定家も手伝ったようなので、ちょこっと登場させておきました。
 忠度さんは1184年に没しています。もうこの時はいないのですね。巻き物に百首余りだか歌を書き集めたのに、入れてもらえたのは一首だけ、それも朝敵となってしまったため本名は載せられず、「よみ人知らず」になったという顛末なのでした。
 
 「勅勘の人」の勅勘とは天皇のおとがめのことで、それを受けている人が「勅勘の人」なんですね。死んだ後でも罪人は罪人、という扱いですね。
 「さざ波や」は「志賀」の枕詞、「ながら」が「長良山」と「昔ながら」との掛詞になっています。
 
 歌の作者が「よみ人知らず」なのは、誰が詠んだかわからないからではなく、こうした理由によるものもあるのですね。でもここにその秘密は明かされているので、本当の意味で「よみ人知らず」ではないですよね。公然の秘密、てことだったんでしょうか。

 忠度は俊成さんの弟子でもあったので、師弟愛からの同情もあるでしょうし、俊成さんとしては身分や立場を忘れて文芸を評価したい気持ちが歌人の心としてあったんじゃないでしょうか。いい歌がたくさんあるのに、政治的な理由で選べないことには忸怩たる思いがあったであろう、というお話ですね。
posted by juppo at 00:25| Comment(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月16日

忠度の都落ちB

続きです。
〈本文〉
「かかる忘れ形見を賜はり起き候ひぬる上は、ゆめゆめ粗略を存ずまじう候。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙押へがたう候へ。」とのたまへば、薩摩の守喜びて、「今は西海(さいかい)の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」とて、馬にうち乗り甲(かぶと)の緒を締め、西をさいてぞ歩ませたまふ。三位後ろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途(せんど)ほど遠し、思ひを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳(は)す。」と、高らかに口ずさみたまへば、俊成の卿いとど名残(なごり)惜しうおぼえて、涙を押へてぞ入りたまふ。
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〈juppo〉週末にこの回をブログに上げようと思っていたのですが、レギンスの伸びたゴムを付け替えたり、綻びたレギンスを繕ったりしてるうちに日曜日が終わってしまいました。どんだけレギンスを履き古しているのか、という週末でした。はい、私はレギンスのゴムが伸びたり多少古びたからといって捨てないで履き続けるのであります。伝線したストッキングは短く切って拭き掃除に使っています。

 無事に巻物を手渡したので安心して再び都落ちするらしい忠度さんですね。おいとまする際に「甲の緒を締め」とあったのでここからカブトを被ってもらいました。それまでカブトじゃなかったのは何故なのか、うっかり忘れそうになりましたが大した意味はありません。この場面を描いた平家物語の絵で、忠度さんは烏帽子姿だったからです。
 この時、忠度さんは40歳、俊成さんは70歳、だったようなので、俊成さんはグレーな髪にしておきました。

 「前途ほど遠し・・」は詩吟なんですね。「忠度の声とおぼしくて」とあるので、はっきり忠度さんが吟じたとはわからないような描写です。俊成さんの脳内に響いていたのでは。もともと、『和漢朗詠集』とかいうのにある詩の一つが元になっているようですし、これもそれも旅立つ人に向けた別れを詠んでるんですよね。「君の〜ゆく〜道は〜果てし〜なく〜遠い〜」みたいな感じです。

 ここでこのお話は終わっているように見えますが、もう1回あります。もちろん近日中に!
posted by juppo at 00:43| Comment(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月07日

忠度の都落ちA

あけましておめでとうございます!続きです。
〈本文〉
 薩摩の守のたまひけるは、「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御事に思ひまゐらせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略(そりやく)を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都をいでさせたまひぬ。一門の運命、はや尽き候ひぬ。撰集(せんじゆう)のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも御恩をかうぶらうと存じて候ひしに、やがて世の乱れいできて、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存じ候。世静まり候ひなば、勅撰(ちよくせん)の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶりて、草の蔭にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」とて、日ごろよみおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧(よろい)の引き合はせより取りいでて、俊成の卿に奉流。三位これをあけて見て、
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〈juppo〉今年もよろしくお願いします!皆さんどのように年末年始をお過ごしだったでしょうか。
 あっという間に2018年も終わりましたが、2019年も始まってしまうと既にあっという間に過ぎていく感じです。

 前回の内容について、言い訳をしようと思っていて忘れていたことがあります。2コマ目で忠度さん自ら門を押していましたが、4コマ目で「馬から下りて」とあるので、門を押したのは多分供の武者の誰かなんですよね。でも忠度さんにやってもらった方が分かりやすいかな〜、と思って押してもらいました。
 今回も忠度さんがほとんど一人で話すだけで、お供の人たちは全4回通してほとんど出てきません。

 それで、忠度さんが今回何を長々語っているのかというと、それこそが都に戻ってきた目的なんですけど、この方は歌道に熱心な人で、俊成さんは歌のお師匠さんだったんですね。俊成さんが「千載和歌集」の撰者だったとは前回言及しましたが、「撰集」てのがその「千載和歌集」のことです。忠度さんは和歌集が編まれるニュースを聞いて、自分の歌も入れて欲しいと思って、戻ってきたというわけでした。
 入れて欲しいのですが、世の乱れの大元である平家の出である自分の歌なんて・・という躊躇も葛藤もありつつの懇願の場面です。

 鎧の引き合わせというのは、鎧の前と後ろの面を脇できゅーっと引き結ぶところのことだそうで、そこから手を入れて鎧の中に入れていた巻き物を取り出したのですね。

 最初は4回とも6コマずつで描こうと思っていたのですが、それなら8コマで全3回にできるのでは、というのは置いといて、この回だけ情報量というかセリフが多くて8コマになってしまいました。

 後半は忠度さんの巻き物に納められた和歌の行く末です。続きは近いうちに。
posted by juppo at 00:32| Comment(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月31日

忠度(ただのり)の都落ち@

紅白を見つつ。大変ご無沙汰いたしました。「平家物語」です。リクエストにお応えします。
〈本文〉
薩摩(さつま)の守(かみ)忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍(さぶらい)五騎、童(わらわ)一人(いちにん)、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位(さんみ)俊成(しゆんぜい)の宿所におはして見たまへば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度。」と名のりたまへば、「落人(おちうど)帰り来たり。」とて、その内騒ぎ合へり。薩摩の守馬よりおり、みづから高らかにのたまひけるは、「別(べち)の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候。門を開かれずとも、このきはまで立ち寄らせたまへ。」とのたまへば、俊成の卿、「さる事あるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」とて、門(かど)をあけて対面あり。事の体(てい)何となうあはれなり。
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〈juppo〉3冊目の書籍発売のお知らせをサクッとして以来、更新しないまま平成30年が暮れてしまうかと思いました。ギリギリセーフで今年最後の更新です。
 「平家物語」はどうも苦手で、あれ、この前「源氏物語」の時もそんなことを言ってましたね。有名な作品ほど敷居が高いんですね。

 リクエストもこのタイトルでいただき、手元にある訳本のタイトルもこれなので「忠度」としていますが、いろいろ調べているうちに「忠教」「忠則」という表記も見ました。どのタダノリさんですか。とりあえず忠度さんで描きました。平清盛の末弟だそうです。「木曽の最期」の、あの木曽義仲がまだ平家を追い散らしていたころ、てんでに都落ちした平家の皆さんの中にいた方のようです。
 タイトルも「都落ち」ですし、都落ちはしている最中のようですが、ふと思い立って都に用を足しに戻って来たところです。ですからここは都です。

 「五条の三位俊成」は藤原俊成のことで「千載和歌集」の撰者だった人です。俊成は「としなり」でも「しゅんぜい」でも良いようです。私は「としなり」と思って描いてます。藤原定家のお父さんです。五条は住んでいるところ、三位は官位です。

 さてその俊成さんに何の用があって引き返して来た忠度さんであったのか、以下次号、です。全部で4回になります。もう4回分描いてあります。そんなで余計にお待たせしてしまいました。


 今年も残すところあと1時間を切ってしまいました。
皆さん、今年もブログに来てくださってありがとうございました!
無事3冊目の本を出すことが出来、ブログも続けていられて、去年と同じように紅白を見ながら年越しを迎えている、幸せな2018年でした。
 来年の目標は大してないんですけど、続けて本が出せたら最高ですね。そのためにももっと頑張らないと、と思っています。自分の本なのに本が届くまで知らなかった箇所がある・・なんて情けない自分を来年は何とかしたいと思います。

 それでは皆さま良いお年を!
 続きは新年すぐに!!
posted by juppo at 23:33| Comment(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月22日

扇の的D

ついに最終回です!与一くんありがとう!
〈本文〉
与一、鏑(かぶら)をとつてつがひ、よつぴいてひやうどはなつ。小兵といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりをいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入(い)りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に、一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日のかがやいたるに、みな紅(ぐれなゐ)の扇の日出(いだ)したるが、しら浪のうへにただよひ、うきぬ沈(しづ)みぬゆられければ、奥(おき)には平家、ふなばたをたたいて感じたり。陸(くが)には源氏、ゑびらをたたいてどよめきけり。
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〈juppo〉前回と今回の、その、教科書に載っている部分というのは結構短くて、6コマずつで描くつもりでした。@を描く前にもうここだけコマ割りしてラフもうっすら入れてたんですが、ここまで描いてきていざ最終回のペン入れをしようと思ったら、最終回なのに与一くんの出番が少ないな!ということにハタと気づき、急遽全部描き直して与一くんのシーンを増やしました!

 ラフを描いてからかなりの時間がかかってしまったために、描きながら「えびらって何だっけ!?」てなことになったりもしました。「えびら」は矢を入れる筒のことだそうです。
 かぶら矢は絵に描いた通り、先がちょっと丸みを帯びた矢の名前です。丸い部分が鏑というもので、矢に取り付けて使うとか。射るとこの部分がびゅるる〜と鳴って、合戦を始める合図に用いたりしたんだそうです。
 矢が音を立てて飛んだり、与一の成功に源平両軍が船べりやえびらを叩いて騒いでいる様子を想像すると、当時の合戦というのはなかなか賑やかですね。いわゆる鳴り物を使ってスポーツの応援をしているような雰囲気なんでしょうか。

 一寸はだいたい3pでそう訳しましたが、矢の長さはそのままにしました。十二束三伏というのは握りこぶし12個と指3本の長さなのだそうです。人によって違うと思うのですが、普通の矢が十二束で、それが約92pだそうなので、それより少し長い・・ということは、1m弱くらいでしょうか。要するに、普通のより少し長い矢を使っている、ということみたいです。

 
 長らくのおつきあいをいただき、ようやく「扇の的」が完結します。参加してくれた与一くんとお別れするのが淋しくて、長々描いてしまったということも、ちょっとだけあります。
この何ヶ月かの間、「新日本古典文学大系」の「平家物語 下」を図書館で借りては延長し、返してはまた借りる、というのを繰り返しました。やっと返せます、町田さるびあ図書館さま。

 最後にもう一度、与一くん並びに大田原市観光協会様にお礼を申し上げて終わりたいと思います。
 ありがとうございました!
 与一くんの左袖の形状とか、完全には似せられなかった点はどうかご容赦を。
posted by juppo at 01:59| Comment(9) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

扇の的C

いよいよ佳境です!
〈本文〉
ころは二月十八日の酉刻(とりのこく)ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。与一目をふさいで、「南無(なむ)八幡大菩薩、我が国の神明(しんめい)、日光権現(につくわうのごんげん)・宇都宮・那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面(おもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎編とおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
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〈juppo〉普通「扇の的」と言えば、ここからですよね。今回と次回の2回で、その部分をお届けします。
 ここに来て唐突に、1コマ目のように海が荒れていることが発覚しました。今までそんな風に海を描いておりませんでしたが、現場にいたらこんな感じだったかもと想像していただければ幸いです。
 要するに、波が高くて扇の的は揺れて定まらないし、北風はここでは与一にとって向かい風だとかで、だいぶ不利な条件が整っちゃったな、ということなんですね。

 しかしながら、6コマ目では風も少し収まったようです。神様への祈りが通じたのでしょうか。

 与一が祈る神々がずらずら並ぶので、途中で「以下略」にでもしてしまおうかなんて暴挙に走りそうになりましたが、日光、宇都宮、那須、と与一にとって地元の親しみあるはずの神様を省略できないので原文通り祈ってもらいました。最初の「南無八幡大菩薩」の南無は信仰します、という意味で、八幡大菩薩は軍神として武士の皆さんの崇敬があった神様だそうです。

 今回はほぼ与一くんの一人舞台になりました。描けば描くほど、可愛いですね〜与一くん。
 次回はついに最終回です!


 ところで先月、母と、幼なじみの母娘と、奄美大島へ行って来ました。
 偶然にも3回に亘って放送された「ブラタモリ」とのコラボ旅行になりましたが、全くの偶然で、旅したばかりのあそこやあそこがまたテレビで見られたのは嬉しかったです。
 現地の方は口をそろえて「海と山しかない」と言うのですが、本当にそうでした。それがイイんですよ。イイとこでしたよ〜。
IMG_1964.JPGタモさんも登った高知山展望所。

IMG_1991.JPGホノホシ海岸。海。そして山。
posted by juppo at 05:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月05日

扇の的B

お待たせしました。続きです。
〈本文〉
与一畏(かしこま)って申けるは、「射(ゐ)おほせ候はむ事不定(ふぢやう)に候。射損じ候なば、ながきみかたの御きずにて候べし。一定(いちぢやう)つかまつらんずる仁に仰(おほせ)付(つけ)らるべうや候らん」と申(まうす)。判官大にいかって、「鎌倉をたって西国へおもむかん殿原(とのばら)は、義経が命(めい)をそむくべからず。すこしも子細を存ぜん人は、とうとう是より帰らるべし」とぞの給ひける。与一、重ねて辞せばあしかりなんとや思(おもひ)けん、「はづれんは知り候はず。御定(ごぢやう)で候へば、つかまってこそみ候はめ」とて、御まへを罷立(まかりたつ)。黒き馬のふとうたくましゐに、小ぶさの鞦(しりがい)かけ、まろぼやすったる鞍置いてぞ乗ったりける。弓とりなをし、手綱かいくり、右はへむひてあゆませければ、みかたの兵(つはもの)共、うしろをはるかに見をくって、「このわかもの、一定つかまつり候ぬと覚(おぼえ)候
」と申ければ、判官もたのもしげにぞ見給ひける。
 矢ごろすこしとをかりければ、海へ一段ばかりうちいれたれども、猶(なほ)扇のあはひ七段ばかりはあるらむとこそ見えたりけれ。
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〈juppo〉与一くんに少し動きが出てきて、ちょっとオリジナルと違う絵になってきています。ゆるキャラとしての与一くんはいつもにこやかな表情なんですが、義経の命令を聞きがならニコニコしているワケにもいかないので、それなりの顔つきになっていただきました。

 ここまでが、中学国語の教科書では解説で済まされている部分です。この次が、いよいよ与一の華麗なる弓の腕が披露される場面です。一刻も早くご披露したいと思っていますよ!

 一段(たん)、七段と、また距離を表す語が出てきています。ここでも、一段≒11メートルを採用しました。約によっては、微妙に差があって、一段=10メートル、七段=70メートルになっているのもあるようですが、まぁだいたいそのくらい、で読んでいただければどちらでも良いのかと思います。
 今回、一番アタマを悩ませたのは、与一の乗る馬の鞍です。「まろぼやすったる」の「まろぼや」は丸い「ほや」のことで、「ほや」が「やどり木」のことなんだそうです。やどり木を丸く図案化した文様がついた鞍、のようです。それは一体どんな鞍?と行き詰まっていろいろ調べましたが、結局よくわかりませんでした。西洋にもヤドリギの図案というのは結構ある、家紋にやどり木をモチーフにしたものもある、などの知識は増えたものの、鞍の全体像は分からないまま、結果的に意図せずして鞍はそれほど見えないアングルの絵になってしまいました。一応、鞍につけた模様はやどり木の家紋とかいうものを参考にしているんですけど、小さくてハッキリしないですね。

 次回、ついに扇の的を狙う与一くんの活躍をお楽しみに。
posted by juppo at 05:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

扇の的A

続きです。とってもスペシャルなコトになっています!
〈本文〉
さも候へ、扇をば射させらるべうや候らん」と申(まうす)。「射つべき仁(じん)は、みかたに誰(たれ)かある」との給へば、「上手どもいくらも候なかに、下野(しもつけの)国の住人、那須(なすの)太郎資高(すけたか)が子に、与一宗高(よいちむねたか)こそ、小兵(こひやう)で候へども、手ききで候へ」。「証拠(しやうこ)はいかに」との給へば、「かけ鳥なんどをあらがうて、三(みつ)に二(ふたつ)は必ず射落(ゐおと)す物で候」。「さらば召せ」とて召されたり。
 与一、其此(そのころ)は、二十(にじふ)ばかりのおのこ也。かちにあか地の錦をもつて、おほくび・はた袖いろえたる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もよぎ)をどしの鎧(よろい)着て、足じろの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢の、其日のいくさに射て少々残つたりけるを、かしらだかに負ひなし、うす切斑に鷹の羽はぎまぜたるぬた目のかぶらをぞさしそへたる。しげどうの弓脇にはさみ、甲(かぶと)をば脱ぎたかひもにかけ、判官の前に畏(かしこま)る。「いかに宗高、あの扇のまんなか射て、平家に見物せさせよかし」。
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〈juppo〉下野国は今の栃木県のあたりです。今回、このお話を描くために那須与一について調べている中で、栃木県大田原市のゆるキャラ「与一くん」の存在を知りました。今まで知らなくてゴメンなさい。
 与一くんの可愛さに釘付けになった私は、「これはこのキャラで話を進めるべきでは!?」と思い立ち、大田原市観光協会に出演依頼のメールを送ったところ、格別なお計らいにより、出演を快諾していただき、この度のコラボ作品が実現したというわけです。大田原市観光協会さま、与一くん、ありがとうございました!

 そんなわけで、那須与一について詳しく知りたい方は、こんなところにいないで是非大田原市のページを訪れてください。
 「小兵」というと今だと、「小兵力士」というのをよく聞きますよね。里山とか石浦とか、宇良くんとか。もともと、兵ですから大柄ではない兵士のことを指すわけですね。
 後半は主に、与一の装束が詳しく語られています。詳しく書かれてはいますけれど、まぁ与一くんのようなファッションだったと思っていただければ良いと思います。
 「足じろの太刀」とは、刀の鞘に紐をつける金具(足金物)が銀で出来ている、ということのようです。
 「切斑」は矢の羽の黒白の斑紋のことで、「薄切斑」はその黒白がぼんやりしているものだそうです。
 「かぶら」は「鏑矢(かぶらや)」のことで、矢の先に鏑と呼ぶキャップのような物をつけて、飛ばす時に大きな音が鳴るようにしたものです。形が野菜のカブラ(かぶ)に似ているのでこういうそうです。
 「たかひも」は、鎧の前後を肩の部分で結ぶ紐だそうです。
・・・などなど、それぞれ詳しく絵に描いてはいないのですが、皆さんも実際に甲冑を着て戦場に赴く機会でもなければ、気にする必要は生じないものかと思われます。

 判官義経に扇を示され「やっちゃえよ!」的なお言葉を得た与一くんの活躍が、次回は見られますかどうか、しばらく続きます。


大田原市観光協会
http://www.ohtawara.info/index.html

与一くんブログ
http://o-yoichi.jugem.jp
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2017年01月31日

扇の的@

あーもう1月も終わりなんですね〜。皆さん、明けましておめでとうございます。リクエストにお応えします。
〈本文〉
 さる程に、阿波(あは)・讃岐(さぬき)に平家をそむいて源氏をまちける物ども、あそこの峰、ここの洞(ほら)より十四五騎、二十騎うちつれうちつれ参りければ、判官ほどなく三百余騎にぞなりにける。「けふは日暮れぬ。勝負を決すべからず」とて、引退(ひきの)く処(ところ)に、おきの方より尋常(じんじやう)にかざったる小舟一艘(さう)、みぎはへむいてこぎよせけり。磯へ七、八段(たん)ばかりになりしかば、舟をよこさまになす。「あれはいかに」と見る程に、舟のうちより、よはひ十八、九ばかりなる女房の、まことにゆうにうつくしきが、柳のいつつぎぬにくれなゐのはかま着て、みな紅(くれなゐ)の扇の日出(いだ)したるを、舟のせがいにはさみ立てて、陸(くが)へむひてぞまねひたる。判官、後藤兵衛実基(ごとうびやうゑさねもと)を召(め)して、「あれはいかに」との給へば、「射(ゐ)よとにこそ候めれ。ただし大将軍矢おもてにすすむで、傾城(けいせい)を御らんぜば、手たれにねら打て射落(ゐおと)せとのはかり事とおぼえ候。
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〈juppo〉今年のブログ始めは「平家物語」です。

 この「扇の的」にリクエストをいただいたのは、もうずいぶん前のことです。何度も描こうと思いながら、その都度いろいろあって先送りになってしまっていました。思い出すのは父が亡くなる少し前、平家物語を図書館で借りてきたのにその後バタバタしたまま他のリクエスト作品に紛れてしまったあの夏です。父が亡くなったのは7年も前ですから、放置の歴史にしみじみとしてしまいます。毎度のことながら、本当にスミマセン。

 お話はタイトル通り、扇の的を弓で射る話です。那須与一(なすのよいち)という人が射る人ですが、今回はまだ登場していません。
 この作品は中学2年の国語の教科書に載っていると思いますが、古文として勉強するのはその与一が弓を構えてから見事に射るところまでで、その前の場面は口語での説明になってたと思います。
 漫画にするにあたって、その与一のシーンだけ描くつもりで訳し始めましたが、どういう経緯でそのシーンに至ったか、やはり説明が必要になることがわかり、説明するくらいならそこから漫画にしてしまおう、ということでここから描き始めました。結局、どういう理由で平家の小舟が扇を立てて源氏を挑発することになったのかは、漫画にしてもわからないままなんですけど。
 
 以前描いた「能登殿の最期」は、このもう少し後の場面です。ここは源平合戦の終わりの始まりのシーンなんですね。
 「判官」は源義経のことで、義経率いる源氏軍が壇ノ浦に到着したところです。
 小舟が止まった磯へ七、八段の「段」は「たん」と読み、一段は約11メートルというのと約2.7メートルという二つの解釈があり、時代によって違うらしいのです。訳によっても違っていたりするのですが、扇までの距離が遠くて射るのが難しいという今後の展開から、一段≒11メートルを採用することにしました。

 「女房」とは奥さんではなく、宮中に仕える女性のことですね。その女房が着ている「柳がさねのいつつぎぬ」ですが、「柳がさね」は表が白、裏が青のかさねの色目とかで、冬から春にかけての装束だそうです。「いつつぎぬ」は着物を5枚重ねて着るスタイルのようです。

 「傾城」は「その色香で城を傾け滅ぼすほどの美女」だそうです。相当美人です。

 次回、満を持して与一が登場します!なるべくお待たせしないうちに描きたいです。今年もどうぞよろしくお願いします。
posted by juppo at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月20日

能登殿の最期C

皆さま、お待たせいたしました。ついに本当に今度こそ能登殿の最期をお届けしますよ。
〈本文〉「いざうれ、さらばおれら死出の山の供せよ。」とて、生年二十六にて海へつつとぞ入りたまふ。
新中納言、「見るべきほどのことは見つ、今は自害せん。」とて、乳母子(めのとご)の伊賀の平内左衛門(へいないざえもん)家長(いえなが)を召して、「いかに、約束はたがふまじきか。」とのたまへば、「子細にや及び候。」と、中納言に鎧二領着せたてまつり、わが身も鎧二領着て、手を取り組んで海へぞ入りにける。
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〈juppo〉もったいつけて1話伸ばしたわりに、能登殿は1コマで退場してしまいました。残念です。
変わって今回唐突に主役に躍り出たのが、新中納言知盛です。誰だっけ?という感じです。もちろんここでは初登場です。
そもそも能登殿は平教経(たいらののりつね)という名前で、平家物語の中心人物・平清盛の、弟の息子、つまり甥です。
一方知盛は清盛の息子だそうですから、えーとつまりいとこ同士、てことですね?
能登殿は26歳で、とありますが、この時知盛は34歳だそうです。2人とも若いです。

何しろ平家物語って長いし、みんな盛がつく名前だし、ややこしいんですけど、とにかくこうして平家は皆死んでいくんだな〜、と思って読めばほぼ間違いないでしょう。
この時点で清盛はとっくに病死してますし、言及してませんでしたがここはもう壇ノ浦での合戦シーンですので、数ある平家物語の「〜の最期」の中でも、最期中の最期、てところなんですね。
ここにいたるまでに平家の他のメンバーも、どぼどぼ海に落ちてるんですよね。

そんな訳で能登殿もここで終わりを観念してのことなのか、それならばついでに敵を多いだけ道連れにしようという死に方を選んでるんですね。

知盛はその死に際を見届けて、これまたあっさり自害です。乳母子は同じ乳母に育てられた子で、この家長とおそらく「死ぬ時は一緒」的な約束をしていたんでしょうね。鎧二領とは鎧を二枚ということで、せっかく沈んでも浮かんで来ないように、重い鎧をご丁寧に二枚重ねて着るんですね〜。
沈んだものの苦しくて、鎧を脱ぎ捨てて助かってしまった平家の武者はいなかったのかなぁ、なんて思いながら描きました。いたとしても、捕まって結局滅んでしまうんですかねぇ。

これでこのお話は終わりです。次回は何を描くか選び中ですが、なるべく間を開けずに更新したいです。いつもそう思ってるんですけどね。


前回お知らせしたブログ書籍化については、その後大して進展していません。ところでその件で舞い上がってお知らせするのを忘れていましたが、この4月から高校で使われている筈の教材の一つに、イラストを描いたんですよー。

Amazonでは売り切れ中でした。中のイラストを、去年ずーっと描いてました。
posted by juppo at 00:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月07日

能登殿の最期B

お待たせしました!関東地方も梅雨入りしました。後ほど、重大発表もあります。
〈本文〉ここに土佐の国の住人安芸郷(あきごう)を知行(ちぎよう)しける安芸の大領実康(さねやす)が子に、安芸の太郎実光(さねみつ)とて、三十人が力持つたる大力(だいじから)の剛(ごう)の者あり。われにちつとも劣らぬ郎等(ろうどう)一人、おととの次郎も普通にはすぐれたるしたたか者なり。安芸の太郎、能登殿を見たてまつて申しけるは、「いかに猛(たけ)うましますとも、われら三人取りついたらんに、たとひたけ十丈の鬼なりとも、などか従へざるべき。」とて、主従(しゆうじゆう)三人小船に乗つて、能登殿の船に押し並べ、「えい。」と言ひて乗り移り、甲(かぶと)の綴(しころ)をかたぶけ、太刀を抜いて一面に討つてかかる。能登殿ちつとも騒ぎたまはず、まつさきに進んだる安芸の太郎が郎等を、すそを合はせて、海へどうど蹴(け)入れたまふ。続いて寄る安芸の太郎を弓手(ゆんで)の脇に取つてはさみ、おととの次郎をば馬手(めて)の脇にかいばさみ、ひと締め締めて、
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〈juppo〉いったいいつまで最期最期と言い続けているのかと思われそうですが、まだ最期が来ません。能登殿。
 とは言え、いよいよクライマックスではあります。その直前で中途半端に切ってしまいました。あとちょっとだけ残ってる分は、実はもう描いたので、近日中にご紹介します。重大発表はコレじゃありません。

 前回能登殿から逃れた判官義経はあのままどこかへ行ってしまったのか、もう出て来ません。代わりに突然安芸の太郎チームの登場です。登場して挑みかかった途端にもうやられそうですけど。
 能登殿が大童の髪型になって、太郎次郎兄弟と対峙するこの場面は、平家物語でも圧巻のシーンなんですよね。3人が束になってかかってもかなわない程の強さは、能登殿の真髄なのか、最期の一撃ならではなのか、現代人には計り知れないことですが。

 「十丈の鬼」の「丈」は長さの単位で、1丈は約3.03メートルです。鬼はやっぱり大きいんですね。
 「綴」は「しころ」と読んで、カブトの下に垂れた、首を守る部分のことだそうです。綴山親方の綴にはそんな意味があったとは。

 「弓手」は左手、「馬手」は右手を指すんですね。弓を左手で持ち、馬の手綱を右手で持つからなんですね。逆は許されなかったのでしょうか。日本人はわりとそう言う作法にうるさいですからね。今は左利きの方も多いですが、右と左をそれぞれ「お箸持つ方」「お茶碗持つ方」なんて言ったりもしますからねー。

 そういう訳で次回がいよいよ最終回になります。

 
 さて、思わせぶりな重大発表です!
 皆さんに可愛がっていただいているこのブログが、ついに、なんと、

 本になることになりました!!

 まだ出来てはいないんですけど、いろいろと順調に行けば、夢でなければ秋に刊行予定です。
 本当に出来上がったらいいですね〜。楽しみです。
 今後も少しずつ、制作状況がお知らせできればと思います。できる範囲で。


 
posted by juppo at 23:55| Comment(7) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

能登殿の最期A

大変長らくお待たせいたしました。続きです。
〈本文〉判官もさきに心得て、おもてに立つやうにはしけれども、とかく違ひて能登殿には組まれず。されどもいかがしたりけん、判官の船に乗り当たつて、あはやと目をかけて飛んでかかるに、判官かなはじとや思はれけん、長刀脇(わき)にかいばさみ、味方の船の二丈ばかり退(の)いたりけるに、ゆらりと飛び乗りたまひぬ。
能登殿は、早業(はやわざ)や劣られたりけん、やがて続いても飛びたまはず。今はかうと思はれければ、太刀長刀海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられけり。鎧の草摺(くさずり)かなぐり捨て、銅ばかり着て、おほわらはになり、大手(おおで)を広げて立たれたり。およそあたりを払つてぞ見えたりける。
恐ろしなんどもおろかなり。能登殿大音声(だいおんじよう)をあげて、「われと思はん者どもは、寄つて教経に組んでいけどりにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝(よりとも)に会うて、もの一言(ひとこと)言はんと思ふぞ。寄れや、寄れ。」とのたまへども、寄る者一人(いちにん)もなかりけり。
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〈juppo〉3月になりましたが、なかなか能登殿の最期の最後にたどり着きませんね。人生の残り時間はどんどん少なくなるのに、何をやるにも時間がかかるようになってくるのが年を取るということなのだなぁ〜、なんてただ思っています。そんな中、今回の漫画を描きながら仕上げる直前になって、突然編み物を始めたら止まらなくなってしまいました。

 「草摺」というのは、ヨロイの下に垂れたスカートみたいな部分のことだそうです。どうしてそこまで脱ぎ捨てたのか不明ですが、やっぱりびらびら着いてると動きにくいんですかね。
 「おほわらわ」は「大童」と書きます。今でも「引っ越しの準備で大わらわですよ。」なんて言いますが、大童は大きな童(こども)という意味なんですね。
武士の髷がほどけてざんばら髪になった様子が、髷を結わない子どもみたいだから、そういう形容をしたんですね。そんな姿になって戦っている奮闘ぶりが、今の大わらわの意味である、大変忙しくてんてこまいな状況を表す言葉に残ったんでしょうね。武士はカブトをかぶる時は髷を結わないので、カブトを脱ぐとざんばら髪になってしまうんですって。
 「おろかなり」は愚かだとかバカみたい、というより「〜と言うのも愚かだ」というような意味で、そう言うだけでは不十分なほど、ということになるそうです。

 探しても追っても相対せない義経との対決をさっさと諦めた能登殿のようです。
 描いていて、キレて怒鳴りまくるエガちゃんを連想しました。何しろ「一言もの申〜す!!」ですからね。
 着々とその最期に近づく能登殿の最期はまた次回・・・くらいに。続きます。


 ところで、先日母と水戸の偕楽園に行ってきました。偕楽園では3月末まで梅まつり開催中です。先週はまだ七部咲きでしたが、黄門様にお会いして記念写真撮ってきました。
posted by juppo at 05:34| Comment(6) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

能登殿の最期@

皆さん、明けましておめでとうございます。新成人の皆さんおめでとうございます。センター入試に挑まれる皆さん、頑張ってください。今年は『平家物語』からのスタートです。リクエストにお応えしています。
〈本文〉 およそ能登(のと)の守(かみ)教経(のりつね)の矢先に回る者こそなかりけれ。矢だねのあるほど射尽くして、今日(きよう)を最後とや思はれけん、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧着て、いか物づくりの大太刀(おおだち)抜き、白柄(しらえ)の大長刀(おおなぎなた)のさやをはづし、左右(そう)に持つて薙(な)ぎ回りたまふに、おもてを合はする者ぞなき。多くの者ども討たれにけり。新中納言使者を立てて、「能登殿、いたう罪な作りたまひそ。さりとてよき敵(かたき)か。」とのたまひければ、「さては大将軍に組めごさんなれ。」と心得て、打ち物茎短(くきみじか)に取つて、源氏の船に乗り移り乗り移り、をめき叫んで攻め戦ふ。判官を見知りたまはねば、物の具のよき武者をば判官かと目をかけて、馳(は)せ回る。
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〈juppo〉まー『平家物語』ったら「最期」ばっかりですね。平家が滅亡する話ですから、そりゃそうなんですけど、微に入り細に亘って平氏の武将があちこちで倒れるさまが綴られているんですね。

 そういうわけで今回は残念ながら能登殿が最期です。能登殿の人となりをそれほど知らずに描いている私ですが。
 最期ではあるんですけど、まだ能登殿は健在です。何回か続きます。

 ところで年末に、年賀状を作ろうと思った途端、PCとプリンタが相次いで壊れました。プリンタは新しいのを購入し、PCはMacなので修理してもらえるところを探して新年早々駆け込みました。幸い、液晶その他の交換だけで済んだので、すぐ直りました。年賀状はPCを使わずに作成しました。

 そうこうしているうちにもう1月も半分くらい終わりそうですが、今週後半、母と私は宮古島に行って来ます!
 能登殿は一旦お休みして、次回はその話を詳しく書きます。

 
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
posted by juppo at 04:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月04日

木曾の最期(前のほう)�

最終回でーす。
〈本文〉
なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれたてまつりて、「あつぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せたてまつらん。」とて控へたるところに、武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田(おんだの)八郎師重(もろしげ)、三十騎ばかりでいで来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪(まえわ)に押しつけて、ちつとも働かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。そののち、物の具脱ぎ捨て、東国の方(かた)へ落ちぞ行く。手塚(てづかの)太郎討死す。手塚別当落ちにけり。

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〈juppo〉本当に長々おつき合いいただきましたが、やっと『木曾の最期』は完結です。お疲れ様でした。以前描いた後半の部分に、ここでつながります。

 後半では木曾殿は今井四郎とふたりだけになっていましたから、ここでは大勢いた木曾殿の軍がいかにして滅んでいったかが、描かれていたのです。

 そのうち紅一点の巴さんは討ち死にしなかったことが分かって安心しましたね。でも、手放すには惜しい兵力ではないですか、巴さん。

 「首ねぢ切つて捨ててんげり。」ですよ。このフレーズが頭から離れなくなりそうですよね。

 最初から大力で有名な、という呼び声で登場した敵の大将に抵抗も許さず素手で(!)首をねじ切ることができるなんて、もう「さっさと天下を取ってしまえよ、巴ちゃん。」と思ったのは私だけではないと思います。

 東国へ落ちのびたとしか、ここでは明らかになっていませんが、巴さんはその後どうなったのでしょうね。消息をご存知の方はご一報ください。
 

 最後のコマで初登場した手塚太郎・手塚別当のお二人は、残りの木曾軍です。木曾殿の軍は全部で五騎でしたからね。これで計算が合う訳です。



 戦国武士を描きまくっている間に桜が満開になっていました。
今年は特別お花見をしてません。専ら帰り道に夜桜を愛でています。毎年そうですけど。
posted by juppo at 23:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月22日

木曾の最期(前のほう)�

熱戦継続中です。
〈本文〉
木曾三百余騎、六千余騎が中を、縦様(たてさま)・横様(よこさま)・蜘蛛手(くもで)・十文字(もんじ)に駆け割つて、うしろへつつといでたれば、五十騎ばかりになりにけり。
 そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平(といのじろうさねひら)二千余騎でささへたり。それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここではニ、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を、駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎がうちまで、巴は討たれざりけり。木曾殿、「おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け。われは討死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、『木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけり。』なんど言はれんことも、しかるべからず。」とのたまひけれども、

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〈juppo〉昨日、一昨日と凄い風が吹いていましたね。あの風で関東一円の杉花粉が飛び去ってくれていたらいいのですが。


 木曾殿の軍勢も、風前の灯になってきました。今井四郎とたったふたりになるまで、もう一歩です。

 巴さんが久しぶりに登場しました。こんなに命知らずの突撃の中でも、ふたりは一緒だったんですね。途中でどうかなってしまったら、なんて考えないのでしょうか。それも運命だと覚悟は出来ているのでしょうか。

 そこまで一緒に来ておいて、五騎だけになった時点でやっと「どこかへ逃げろ」と言う木曾殿です。


 「おのれはとうとう」の「とうとう」は、「遂に」という意味ではなく、「とくとく」が変化したもので「早く早く」という意味です。
 そんなことを今さら言われたからといって、「じゃあ」と去っていくことが出来るでしょうか?特にこの、巴さんが。


 とは言え、物語の後半で木曾殿の部下は今井だけしか残ってないことは既にこのブログでは明らかになっていますので、後は巴さんの退場シーンを残すのみです。

 そのシーンがあと一回、続きます。
posted by juppo at 23:07| Comment(3) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月15日

木曾の最期(前のほう)�

続きを描くのに時間がかかって、ご迷惑をおかけしています。
〈本文〉
 木曾左馬頭(さまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧着て、鍬形(くわがた)打つたる甲(かぶと)の緒締め、いか物づくりの大太刀はき、石打(いしうち)の矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、滋籐(しげどう)の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太うたくましいに、黄覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)ふんばり立ちあがり、大音声(だいおんじよう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曾の冠者(かんじや)、今は見るらん、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによいかたきぞ。義仲討つて兵衛佐(ひようえのすけ)に見せよや。」とて、をめいて駆(か)く。一条次郎、「ただ今名のるは大将軍ぞ。あますな者ども、もらすな若党、討てや。」とて、大勢の中に取りこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。

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〈juppo〉暖かくなってきましたね。皆さんもう学年末テストも終了している頃でしょうか。ここが試験範囲だったのに、という方、お話を全部紹介出来なくて本当にごめんなさい。
 『木曾の最期』はもう少しあるんです。


 冒頭、「木曾左馬頭」って一体誰よ?また新しい登場人物なの?と思いますが、左馬頭というのが木曾殿のことなんですね。馬の世話をする仕事に関係した役職名みたいです。その後名のっている「朝日の将軍」というのは、後白河法皇からもらった称号とも、勝手に名のっているのだとも、諸説あるようです。

 そういう訳で、ここで初めて木曾殿がどんな格好をしているのか、が明らかになる訳です。
 物語の後半から描いていた私にとっても実は新事実だらけで、今まで木曾殿が武器を持っていなかったのは、どこかに持っていたのが見えてなかっただけだと思っていただけるとありがたいです。
 唯一、「鍬形打つたる甲」らしき物を何気なく描いていたのは不幸中の幸いと言わざるを得ません。全く知らないで描いていたのです・・・。


 花粉症で何もかもけだるい雰囲気になってしまっているのがブログを続けて更新出来ない大きな理由なんですが、物語の内容がどんどん合戦シーン中心になってきているのもやる気に結びつかない要因です。
 「戦国武将にはもう馬に乗らないでもらいたい」と思ってしまうほど闘うシーンを描くのがかったるいです。


 だからといってここで放り出したりはしませんので〜。
 巴さん大活躍のシーンも残っていますし、頑張って続けます。鼻をかみながら。
posted by juppo at 22:11| Comment(6) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月08日

木曾の最後(前のほう)�

引き続き、打出の浜のふたりです。
〈本文〉
木曾殿、「契りはいまだ朽ちせざりけり。義仲が勢はかたきに押し隔てられ、山林にはせ散って、この辺にもあるらんぞ。なんぢが巻かせて持たせたる旗、揚げさせよ。」とのたまへば、今井が旗をさし揚げたり。京より落つる勢(せい)ともなく、勢田より落つる者ともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞはせ集まる。
 木曾大きに喜びて、「この勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。ここにしぐらうで見ゆるはたが手やらん。」「甲斐(かい)の一条次郎殿とこそ承り候へ。」「勢はいくらほどあるやらん。」「六千余騎とこそ聞こへ候へ。」「さては、よいかたきごさんなれ。同じう死なば、よからうかたきに駆け会うて、大勢の中でこそ討死をもせめ。」とて、まつ先にこそ進みけれ。

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〈juppo〉『平家物語』は古文の中でも読みやすい作品ですね。
 ・・と、いうことをここ最近ずっと読んでいて感じました。今さらですけど。本文では「ざり」とか「けり」とかに惑わされますが、セリフを作ってみると、ほとんど言葉を置き換えなくても済むんですよー。


 「しぐらうで」とか「ごさんなれ」はまた耳なれない言葉ですけどね。
 「しぐらうで」は「時雨」の黒い雲が群がって見える様子から出来た言葉という説もあるようです。


 さて、再会した木曾殿と今井四郎ですが、出た、「前世の契り」。
 「男同士でも?」な展開ですね。まぁこの場合の契りは別に恋愛感情の契りではなく、主従とか同志とか兄弟とかの契りだったのでしょうね。


 前回巻いていた旗を今回は揚げることになったのですが、この旗は目印ですから、おそらく何かの図柄が描かれていたものと思います。
 今回、私にはそれが分からなかったので白旗にしてしまいました。皆さんでお好きな図案を描き入れてください。また、正解をご存知の方はお知らせください。

 その旗を差し上げた途端、周辺に隠れていた味方が三百余騎も集まって来た、というのはちょっと考えると凄いシーンですね。もの凄く大掛かりな「缶蹴り」を、私はイメージしているのですが。


 ところが、敵の軍勢は六千余騎ですよ。軽く20倍じゃないですか。木曾殿はさらっと「よいかたき」と言ってますが、そんなことで血湧き肉踊っちゃうんですから、ホントに武士という人たちは究極のMですよね。死にたくてたまらない雰囲気がもう漂っています。ここまでそれを我慢して来たのだから尚更ですね。



 続きます。
posted by juppo at 22:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月07日

木曾の最期(前のほう)�

順調に、続けます。
〈本文〉
 木曾は、長坂を経て丹波路(たんばじ)へおもむくとも聞こえけり。また竜花越(りゆうげごえ)にかかつて北国へとも聞こえけり。
かかりしかども、今井が行くへを聞かばやとて、勢田(せた)のかたへ落ち行くほどに、今井四郎兼平(かねひら)も、八百余騎で勢田を固めたりけるが、わづかに五十騎ばかりに討ちなされ、旗をば巻かせて、主のおぼつかなきに、都へとつて返すほどに、大津の打出(うちで)の浜にて、木曾殿に行き会ひたてまつる。互ひになか一町ばかりよりそれと見知つて、主従駒(こま)を早めて寄り合うたり。
 木曾殿、今井が手を取つてのたまひけるは、「義仲、六条河原(かわら)でいかにもなるべかりつれども、なんぢが行くへの恋しさに、多くのかたきの中を駆け割つて、これまではのがれたるなり。」今井四郎、「御諚(ごじよう)まことにかたじけなう候。兼平も勢田で討死(うちじに)つかまつるべう候ひつれども、御行くへのおぼつかなさに、これまで参つて候。」とぞ申しける。

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〈juppo〉前回あんなに活躍した巴さんはいきなり姿を消して、今回は木曾殿と今井四郎の主従愛の物語です。

 別れたりまた合流したりしている間にも、軍勢は確実に縮小して、このふたりの運命がひたひたと近づいている感じがしますね。私たちはもうこのふたりの運命を知っているからですが。

 「旗をば巻かせて」というのは、ここではこの軍隊は逃げているので、敵に見つからないように自軍の旗を巻いてはためかないようにしているのだそうです。


 ふたりが再開した大津の打出の浜は、琵琶湖の浜ですよね。漫画では海岸みたいになってしまいましたが湖です。でも琵琶湖ってこれくらい広いですよね?(実際に見たことがないんです・・・。)
 一町は約109メートルだそうです。見分けがつかないほど遠くはないですね。でも甲冑姿では誰でも似たような外見ですから、「それと見知っ」たふたりには、やはり何か感じあうものがあったのでしょうね。


 最後の方はセリフだらけで読みにくくなってしまいました。すみません。
 セリフだらけなのに、「義仲(自分のこと)は」と、いちいち(自分のこと)と書き入れているのは、古文では割といつもそうですが、大の男が自分のことをファーストネームで呼ぶのが面白いからです。
 私が面白がっているだけなんですけど、これからもこういうのはいちいち入れたいと思っています。

  
 そういう訳で、まだまだ続きます。
posted by juppo at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月04日

木曾の最期(前のほう)�

リクエストにお応えします。
以前描いた『木曾の最期』に至るまでのお話です。
〈本文〉
 木曾殿(きそどの)は信濃(しなの)より、巴(ともえ)・山吹(やまぶき)とて、ふたりの美女(びんじよ)を具せられたり。山吹は、いたはりあつて都にとどまりぬ。中にも巴は、色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓(つよゆみ)・精兵(せいびよう)、馬の上、かちだち、打ち物持つては鬼にも神にも合はうどいふ一人当千(いちにんとうぜん)のつはものなり。究竟(くつきよう)の荒馬乗り、悪所落とし、いくさといへば、さねよき鎧着せ、大太刀(おおだち)・強弓持たせて、まづ一方の大将には向けられけり。度々(どど)の高名(こうみよう)、方を並ぶる者なし。されば、このたびも多くの者ども落ち行き討たれける中に、七騎がうちまで巴は討たれざりけり。

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〈juppo〉このブログでは一度お亡くなりになった木曾殿ですが、物語が遡って見事に復活しました。

 英雄色を好むとか好まないとかで、木曾殿は冒頭から美女をふたり引き連れての登場です。

 ふたりのうち山吹は病気とかであっさり退場します。「いたはり」というのが病気のことなんですね。

 もうひとりの美女、巴はいわゆる「巴御前」のことです。その巴さんは実はこの後木曾殿と合流する腹心の部下・今井四郎の妹なんだそうです。結構近いところで愛人を調達していますね。木曾殿。


 その巴さんの強いの強くないのったら、今読むとすんなり信じられないほどですね。
 ところで、漫画では巴さんだけ兜をかぶっていませんが、これは漫画上の演出です。いくら女だからといって戦場で兜もかぶらなかった訳はないと思いますが、何しろ漫画なので。

 「さね」というのは木曾殿が手に持っているような、小さい薄い鉄の板で、これをつなげて鎧を作ったものだそうです。そう考えただけでも鎧って、重そうですよね〜。

 美しいだけでなく男の武将より強い巴さんの今後の活躍には要注目、かも知れません。


 最後のコマは「七騎」だそうなので、『荒野の七人』のイメージになっています。

 
 
 続きもなるべく早く描きたいです!
posted by juppo at 20:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月01日

祇園精舎�

続きです。
〈本文〉
近く本朝をうかがふに、承平(しょうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治(へいぢ)の信頼(しんらい)、これらはおごれる心もたけきことも、みなとりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう)前(さきの)太政大臣(だいじやうだいじん)平朝臣清盛(たひらのあつそんきよもり)公と申しし人のありさま、伝へ承るこそ、心もことばも及ばれね。

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〈juppo〉後半はちょっぴりでした。前回の「遠く異朝を」と今回の「近く本朝を」は対句表現になっています。

 対句表現は冒頭部分にこそ顕著なんですけどね。琵琶の音に乗せて語り伝えられて来ただけあって、リズム感満載の文章になっているんですね。

 ここから、この話は平清盛の栄華についての物語なのかな、という気配がしますね。
 その平清盛の名前がかなり長いですが、六波羅の入道というのは「六波羅という土地に住む仏門に入った人」という意味です。仏門に入っても出家してない人を入道というのだそうです。

 他の4人は中国の例に出て来た人々と同様、滅んでしまった人なんですけど、皆それぞれ乱を起こして討ち死にしているようですね。

 承平とか天慶とかいうのは年号です。昭和とか平成と同じです。信頼という人は本文では「しんらい」とルビがふられていますが、本名は「ふじわらののぶより」です。昔の人は呼び名的に名前の音読みをしたのですね。

 平将門といえば首塚が有名で、祟りがあるとかないとか、そういうキャラクターになっていますけど、ここではただの過去の人です。

 そういう人たちの中でも、極めて清盛の活躍ぶりはすさまじかったということらしいですが、伝え聞いているのに想像することも言い表すことも出来ないとはどういうことだ、という結びになっていますよね。
 あまりにも信じられないほどのおごり高ぶりようだということなのでしょうか。
posted by juppo at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする