〈本文〉
取りて、「あないみじ、むまのすけのしわざにこそあめれ。心憂げなるむしをしも興じ給へる御顔(おんかほ)を見給ひつらむよ」とて、さまざま聞こゆれば、いらへ給ふ事は、「思ひとけば、ものなむはづかしからぬ。人は夢幻(まぼろし)のやうなる世に、誰かとまりて、悪しき事をも見、よきをも見思ふべき」とのたまへば、いふかひなくて、若き人々、おのがじし心憂がりあへり。この人々、「返事(かへりごと)やはある」とて、しばし立ち給へれど、わらはべをもみな呼び入れて、「心憂し」といひあへり。ある人々は心づきたるもあるべし。さすがにいとほしとて、
人に似ぬ心のうちは かはむしの
名を問ひてこそ いはまほしけれ
むまのすけ、
かはむしに まぎるるまゆの毛の末に
あたるばかりの人はなきかな
といひて、笑ひて返りぬめり。二の巻にあるべし。

〈juppo〉終わってみると結局何の話だったのかなぁ、と思うこともままある古文の世界です。
結局右馬の助は姫に会わずに帰るし、姫の虫好きはそれからどうなったのかもわかりません。最後に「二の巻にあるべし」とあるのは、この後の物語は次の巻にあるんでしょうね!お楽しみに!!なノリで終わっているわけですが、ノリだけで本当に次の巻があるのではないんだそうです。「ぜってぇ見てくれよな!」で関心を集めて終わる、現代の連続ものの手法がこの時代から確立されていたんですねー。連続じゃないのに!
そして結局最後まで名前のなかったこの姫、「モデルがいたんですね」とツイ友さんが教えてくれて「えっ、そうなんですか?」と言ったらwikiにそうあると。私も描き始める前に見ていたはずなのに、忘れていました。平安時代に、趣味に秀でた藤原宗補という太政大臣がいて、蜂を可愛がって飼っていたと。その大臣と、娘がモデル、と言われているようです。「虫愛づる姫君」じゃなく「蜂愛づる大臣」ですね。着想を得たとしても、面白く脚色してあるなぁ、と思います。
「風の谷のナウシカ」も、このお話にヒントを得たとwikiにはありますが、この姫の方が断然強烈なキャラで、私は好きです。世界を救うことなど考えてもいないところも含めて。
強烈すぎて、時々何を言っているのかわからないのですが、今回の「人は夢幻・・・」のセリフも、一度読んだだけでは理解できない哲学的なセリフですよね。要するに「短い人生の間に、何がいいとか悪いとか、判断できる人なんていないでしょうよ!」てことだと思います。だから人に「恥ずかしいからやめなさい」と言われても全然聞く気はない、ということなんですね。2コマ目で大夫がいろいろ話しているのは、そういうことだったようです。達観してますよねー、姫。
我が道をゆく姫はその主義を改めることもなく、右馬の助は第三者が書いてくれたとは知らずに返事をもらってウキウキで帰る、ある意味ハッピーエンドですね。八方丸く収まってますからねー。姫の父や侍女たちは「心憂」な日々がまた続いていくとしても、現状維持であって悪化ではないのですから、多くを望んではいけませんね。
ではまた、できれば近いうちに。他のお話で。