2019年02月08日

鷹を放つA

後編です。昨日、眼科に行ってきました。
〈本文〉
なにせんにかは世(よ)にもまじろはん」とて、いみじくよよと泣けば、我もえせきあへねど、いみじさにたはぶれに言ひなさんとて、「さて鷹(たか)飼(か)はでは、いかが給はむずる」と言ひたれば、やをら立ちはしりて、し据(す)ゑたる鷹をにぎり放ちつ。見る人も涙せきあへず、まして日くらしかなし。心ちにおぼゆるやう、

 あらそへば思ひにわぶるあまぐもにまづそるたかぞかなしかりける

とぞ。
 日暮るるほどに、文(ふみ)みえたり。天下(てんげ)そらごとならんと思へば、「ただいま心地あしくて、え今は」とてやりつ。
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〈juppo〉書いているうちに金曜日になりそうですが書き始めたのは木曜の夜なので、昨日というのは水曜日のことです。
 午後から急に視界に黒い糸くずや細かい泡のようなものが飛び交って、汚れたガラス越しに世界を見ているようになったので、眼科に行ったんですよ。視力検査から眼底検査やら何やらフルコースで検査していただいた結果、眼球の奥の神経のあたりが出血しているということがわかりました。いわゆる飛蚊症です。先生の説明に何度も「年齢的な」という言葉が入っていたので、ひとまず深刻な病気ではないことがわかって安心しました。あらゆる症状の原因が「年のせい」になってしまう世代に突入したのは喜んでいいのか悪いのか微妙ですが。

 まだ黒いものは見えていますが、気にしなければ大丈夫です。とりあえず出血を抑えるらしい薬を服用しています。

 さて、今回の『蜻蛉日記』も結局何も解決しない安定の展開です。が、小さい子どもが絡むとひときわ感傷的になりますねー。けなげさが泣けますねー。
 この子(道綱)はまだ小さいらしいですが、鷹を飼っています。ぺットではなく鷹狩りに使う鷹なんですね。お坊さんは殺生をしないので、狩りなどもってのほかですから、母は息子に坊さんになるなら鷹は飼えないわよ〜と言っているのです。
 狩りの道具としての鷹であっても、子どもにとってはやっぱりペットのようなもので、それを手放してまで坊さんになりたいなどと思わないだろう、という思惑でちょっと冗談めかして言ったのに、子どもはあっさり鷹を放してしまったと。

 「やをら」は今でも使う言葉ですが、急いでいるイメージを持たれやすいですが実は急がない言葉なんですよね。「柔らかい」からできているとイメージすると、間違えずに済むかもしれません。

 今回は悩みのタネの旦那は出て来ずじまいでした。手紙だけ来たようですが、読まずに返す筆者です。開けて見るまでもなく「天下そらごと」だと決めつけられてしまうとは、日頃の行いが相当なのでしょう。
posted by juppo at 00:16| Comment(0) | 蜻蛉日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月30日

鷹を放つ@

久しぶりに『蜻蛉日記』です。リクエストにお応えします。
〈本文〉
 つくづくと思ひつづくることは、なほいかで心ととく死にもしにしがなと思ふよりほかのこともなきを、ただこの一人ある人を思ふにぞ、いとかなしき。人となして、うしろやすからん妻(め)などにあづけてこそ、死にも心やすからんとは思ひしか、いかなる心地してさすらへんずらんと思ふに、なをいと死にがたし。「いかがはせん、かたちをかへて、世(よ)を思ひ離(はな)るやと心みん」とかたらへば、まだふかくもあらぬなれど、いみじうさくりもよよと泣きて、「さなりたまはば、まろも法師(ほうし)になりてこそあらめ、
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〈juppo〉正直、私は『蜻蛉日記』を全編通して読んだことはないのですが、おそらくどこを切り取っても、通う夫の身勝手さと待つ妻の穏やかならざる狂おしい胸のうちが綴られた日記なのだな、という感想をだんだん持つに至っています。

 しかし今回は冒頭から「死んでしまいたい」ですからね。この場面の前に一体何があったのか大変気になりますが、ちょっと遡って読んでみても夫が来たり来なかったり、来ても素っ気なかったり、な日々で極めて平常運転なんですよ。この夫婦としては。
 「死んでしまいたい」ほどの気持ちというのも、この日記の読者からしたらそれほどの落差のない筆者の落ち込みなのかもしれません。でも死にたくなる本人にとっては大問題ですよね。 

 この時代、この夫婦のような通い婚では、妻の実家が夫の面倒を一切見ることになってたそうで、「うしろやすからん妻」に預けたいというのも、そういう家柄のしっかりした嫁に、ということでしょう。ということは、筆者も夫・兼家の生活を担っていたということですよね。それなのに待たされるだけだったら死にたくもなりますかねぇ、やっぱり。とは言え、可愛い息子のことを思えばそう簡単には死ねない、というのも人情です。息子・道綱がこの時何歳なのかよくわからないんですけど、元服前だそうですし、深く物事を考える年でもないらしいので「この子を残して死ねない!」と思える幼さなんだろうと思います。

 生きていても何も良いことなんてない、死んでしまいたいと、もし今そんな気持ちでこれを読んでいる方がいたら、ちょっとでも良いので考えてほしいです。そんなふうに何か一つでも「〇〇のために今は死ねない!」というものはないですか。子どもじゃなくても「ペットの猫ちゃんの面倒を見続けるためには」とか、「残される子が不憫」とは逆に「自分の遺伝子を残すまでは」とか。「来週のMステを見るまでは」やら「闇金ウシジマくんの最終回を読むまでは」なんて、本当〜に些細なことでも良いと思います。「〇〇までは」な目標を見つけてください。見つけ続けてください。そうしているうちに、「別に今死ななくてもいいんじゃないか」と思える日が来るかもしれません。そして必ず、「生きてて良かった!」と思える日が来ます。絶対に。

 道綱の母も、死にたいと言いながら死んでいません。日記を書き続けて後世に残してるんですからねー。尼になる選択肢も出ていますね。「かたちをかへて」は「頭」の形を変えることなんですね。「世」はここでは夫婦の仲のことだそうです。

 続きがあります。「鷹を放つ」というタイトルなのに、鷹が出てきませんでしたが次回に登場します。乞うご期待です。
posted by juppo at 00:24| Comment(0) | 蜻蛉日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月22日

忠度の都落ちC

最終回でーす。
〈本文〉
 そののち世静まつて、「千載(せんざい)集」を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま、言ひおきし言の葉、今さら思ひいでてあはれなりければ、かの巻き物のうちにさりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字(みようじ)をば表はされず、故郷の花といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、よみ人知らずと入れられける。
 
 さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。
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〈juppo〉「千載集」は、1183年に作りましょうというおふれが出て、1188年に完成したということです。俊成さんの息子の定家も手伝ったようなので、ちょこっと登場させておきました。
 忠度さんは1184年に没しています。もうこの時はいないのですね。巻き物に百首余りだか歌を書き集めたのに、入れてもらえたのは一首だけ、それも朝敵となってしまったため本名は載せられず、「よみ人知らず」になったという顛末なのでした。
 
 「勅勘の人」の勅勘とは天皇のおとがめのことで、それを受けている人が「勅勘の人」なんですね。死んだ後でも罪人は罪人、という扱いですね。
 「さざ波や」は「志賀」の枕詞、「ながら」が「長良山」と「昔ながら」との掛詞になっています。
 
 歌の作者が「よみ人知らず」なのは、誰が詠んだかわからないからではなく、こうした理由によるものもあるのですね。でもここにその秘密は明かされているので、本当の意味で「よみ人知らず」ではないですよね。公然の秘密、てことだったんでしょうか。

 忠度は俊成さんの弟子でもあったので、師弟愛からの同情もあるでしょうし、俊成さんとしては身分や立場を忘れて文芸を評価したい気持ちが歌人の心としてあったんじゃないでしょうか。いい歌がたくさんあるのに、政治的な理由で選べないことには忸怩たる思いがあったであろう、というお話ですね。
posted by juppo at 00:25| Comment(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月16日

忠度の都落ちB

続きです。
〈本文〉
「かかる忘れ形見を賜はり起き候ひぬる上は、ゆめゆめ粗略を存ずまじう候。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙押へがたう候へ。」とのたまへば、薩摩の守喜びて、「今は西海(さいかい)の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」とて、馬にうち乗り甲(かぶと)の緒を締め、西をさいてぞ歩ませたまふ。三位後ろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途(せんど)ほど遠し、思ひを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳(は)す。」と、高らかに口ずさみたまへば、俊成の卿いとど名残(なごり)惜しうおぼえて、涙を押へてぞ入りたまふ。
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〈juppo〉週末にこの回をブログに上げようと思っていたのですが、レギンスの伸びたゴムを付け替えたり、綻びたレギンスを繕ったりしてるうちに日曜日が終わってしまいました。どんだけレギンスを履き古しているのか、という週末でした。はい、私はレギンスのゴムが伸びたり多少古びたからといって捨てないで履き続けるのであります。伝線したストッキングは短く切って拭き掃除に使っています。

 無事に巻物を手渡したので安心して再び都落ちするらしい忠度さんですね。おいとまする際に「甲の緒を締め」とあったのでここからカブトを被ってもらいました。それまでカブトじゃなかったのは何故なのか、うっかり忘れそうになりましたが大した意味はありません。この場面を描いた平家物語の絵で、忠度さんは烏帽子姿だったからです。
 この時、忠度さんは40歳、俊成さんは70歳、だったようなので、俊成さんはグレーな髪にしておきました。

 「前途ほど遠し・・」は詩吟なんですね。「忠度の声とおぼしくて」とあるので、はっきり忠度さんが吟じたとはわからないような描写です。俊成さんの脳内に響いていたのでは。もともと、『和漢朗詠集』とかいうのにある詩の一つが元になっているようですし、これもそれも旅立つ人に向けた別れを詠んでるんですよね。「君の〜ゆく〜道は〜果てし〜なく〜遠い〜」みたいな感じです。

 ここでこのお話は終わっているように見えますが、もう1回あります。もちろん近日中に!
posted by juppo at 00:43| Comment(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月07日

忠度の都落ちA

あけましておめでとうございます!続きです。
〈本文〉
 薩摩の守のたまひけるは、「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御事に思ひまゐらせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略(そりやく)を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都をいでさせたまひぬ。一門の運命、はや尽き候ひぬ。撰集(せんじゆう)のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも御恩をかうぶらうと存じて候ひしに、やがて世の乱れいできて、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存じ候。世静まり候ひなば、勅撰(ちよくせん)の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶりて、草の蔭にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」とて、日ごろよみおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧(よろい)の引き合はせより取りいでて、俊成の卿に奉流。三位これをあけて見て、
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〈juppo〉今年もよろしくお願いします!皆さんどのように年末年始をお過ごしだったでしょうか。
 あっという間に2018年も終わりましたが、2019年も始まってしまうと既にあっという間に過ぎていく感じです。

 前回の内容について、言い訳をしようと思っていて忘れていたことがあります。2コマ目で忠度さん自ら門を押していましたが、4コマ目で「馬から下りて」とあるので、門を押したのは多分供の武者の誰かなんですよね。でも忠度さんにやってもらった方が分かりやすいかな〜、と思って押してもらいました。
 今回も忠度さんがほとんど一人で話すだけで、お供の人たちは全4回通してほとんど出てきません。

 それで、忠度さんが今回何を長々語っているのかというと、それこそが都に戻ってきた目的なんですけど、この方は歌道に熱心な人で、俊成さんは歌のお師匠さんだったんですね。俊成さんが「千載和歌集」の撰者だったとは前回言及しましたが、「撰集」てのがその「千載和歌集」のことです。忠度さんは和歌集が編まれるニュースを聞いて、自分の歌も入れて欲しいと思って、戻ってきたというわけでした。
 入れて欲しいのですが、世の乱れの大元である平家の出である自分の歌なんて・・という躊躇も葛藤もありつつの懇願の場面です。

 鎧の引き合わせというのは、鎧の前と後ろの面を脇できゅーっと引き結ぶところのことだそうで、そこから手を入れて鎧の中に入れていた巻き物を取り出したのですね。

 最初は4回とも6コマずつで描こうと思っていたのですが、それなら8コマで全3回にできるのでは、というのは置いといて、この回だけ情報量というかセリフが多くて8コマになってしまいました。

 後半は忠度さんの巻き物に納められた和歌の行く末です。続きは近いうちに。
posted by juppo at 00:32| Comment(0) | 平家物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする