今年もあと一週間くらいになりました。あの頃の未来にいる私たちです。リクエストにお応えします。漢詩です。
〈白文〉
葡萄美酒夜光杯
欲飮琵琶馬上催
醉臥沙場君莫笑
古來征戰幾人囘
〈書き下し文〉
葡萄(ぶどう)の美酒 夜光の杯
飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催(うなが)す
酔うて沙場に臥(ふ)すとも 君 笑うこと莫(な)かれ
古来 征戦 幾人(いくにん)か回(かえ)る
〈juppo〉詠んだのは王翰(おうかん)という人です。8世紀初期の頃の、唐の詩人です。お酒が好きだったようです。このころ、シルクロードによって西方の文化や事物が唐にもたらされたそうで、葡萄酒とか夜光杯とか琵琶はそういうよその国から来た、エキゾチックなアイテムとして詠まれているのだとか。
夜光杯(やこうはい)は普通名詞で、そういう種類の杯があるんですね。玉(ぎょく)で作られていて、夜、月光に透かすと光が見えたのでこう呼ばれるそうです。漫画ではグラスのように描いてしまいましたが、ガラス製ではないようです。
涼州は地名です。
一人で酒を飲んでいるように描いていますが、だんだん戦の話になっていくので、戦場で夜、酒盛りでもしているのかもしれません。馬上で琵琶を鳴らしたのが男なのか女なのか迷いましたが、「催(うなが)す」が出発を促すとも読めるけれども、琵琶の音は出陣を促すにはふさわしくないそうですし、琵琶を弾くのは現地の人なのかもしれないと考えて、女の人にしました。
砂漠で倒れるまで飲んでしまうあたり、ちょっとヤケになっている感じもします。四句目に至って戦で亡くなった兵士に想いを馳せ、あぁ戦は嫌だなぁ、という気持ちを吐露しているようです。そんなことから近代中国では厭戦詩として唐詩選に採用されなかった歴史もあるそうです。
そんな話をこの本で読みました。
風呂では詠んでいません。
次回も漢詩です。紅白の頃に。
2023年12月25日
2023年12月18日
道真左遷G
いよいよ最終回でーす。ちょっとですけど。
〈本文〉
昨日の裏板にもののすすけて、見ゆる所のありければ、はしに上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、この大臣(おとど)、筑紫におはしまして、延喜(えんぎ)三年癸(みづのと)亥(ゐ)二月二十五日にうせたまひしぞかし、御年五十九にて。
〈juppo〉怖いですね〜。まさかこんな後日談が付いていたとは。左遷に関わる陰謀にこれぽっちも関わっていなさそうな、大工の皆さんは無関係に肝を潰すことになってお気の毒としか言いようがありません。
このエピソードはいかにも取ってつけたフィクションの匂いふんぷんではありますが、この後の史実を追うとそんな脚色もしたくなる不幸がどんどん続きます。
道真さんが亡くなった延喜三年は西暦で903年です。その後、
909年 左大臣藤原時平 死亡 39歳
その前年、一味と言われる藤原菅根も死亡
908〜910年 疫病、干ばつが続き、道真の怨霊説が持ち上がる
923年 3月21日 醍醐天皇の息子、保明親王 死亡 21歳
4月20日 天皇が道真に右大臣の位を復任、道真左遷の辞令を破棄。さらに改元。この年、延長元年となる。
925年 保明親王の息子、慶頼王 死亡 5歳
930年 6月雨が降らず雨乞いを行うと、清涼殿の上に暗雲立ち込め雷鳴轟き落雷。大納言藤原清貫が即死および右中弁平希世の顔を焼く。
醍醐天皇は病気になり、9月に朱雀天皇に譲位。10月死亡。
昔はそれほど人の寿命が長くはなかったことでしょうが、道真さん本人が不遇の中59歳まで生きたのに比べると、初回に出てきた時平さんは早死にです。
自然災害まで祟りかというのは非科学的な面もありますが、後ろ暗い思いの方々には自責の念を拭いきれない災難の連続ですね。天皇は自責のあまり道真さんの死去から20年後に、その地位回復を図ったようですが、怨霊道真の怒りは収まらず・・な話題で世間は持ちきりだったんでしょうね〜。
ちなみに、落雷で即死した藤原清貫という人は、在原業平の孫です。
そんな恐い目に遭わせた神様の道真さんですが、前にも書いたように相当な文才・詩才があり、政治にも手腕を発揮した秀才中の秀才だったようです。今では祟り(?)の数々は忘れ去られて、全国の受験生の強い味方です。合格した暁には、是非お礼参りを。
今回の資料としてこちらを図書館で借りて読みました。
「大鏡」の次は漢詩です。多分。できれば年内に。
〈本文〉
昨日の裏板にもののすすけて、見ゆる所のありければ、はしに上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、この大臣(おとど)、筑紫におはしまして、延喜(えんぎ)三年癸(みづのと)亥(ゐ)二月二十五日にうせたまひしぞかし、御年五十九にて。
〈juppo〉怖いですね〜。まさかこんな後日談が付いていたとは。左遷に関わる陰謀にこれぽっちも関わっていなさそうな、大工の皆さんは無関係に肝を潰すことになってお気の毒としか言いようがありません。
このエピソードはいかにも取ってつけたフィクションの匂いふんぷんではありますが、この後の史実を追うとそんな脚色もしたくなる不幸がどんどん続きます。
道真さんが亡くなった延喜三年は西暦で903年です。その後、
909年 左大臣藤原時平 死亡 39歳
その前年、一味と言われる藤原菅根も死亡
908〜910年 疫病、干ばつが続き、道真の怨霊説が持ち上がる
923年 3月21日 醍醐天皇の息子、保明親王 死亡 21歳
4月20日 天皇が道真に右大臣の位を復任、道真左遷の辞令を破棄。さらに改元。この年、延長元年となる。
925年 保明親王の息子、慶頼王 死亡 5歳
930年 6月雨が降らず雨乞いを行うと、清涼殿の上に暗雲立ち込め雷鳴轟き落雷。大納言藤原清貫が即死および右中弁平希世の顔を焼く。
醍醐天皇は病気になり、9月に朱雀天皇に譲位。10月死亡。
昔はそれほど人の寿命が長くはなかったことでしょうが、道真さん本人が不遇の中59歳まで生きたのに比べると、初回に出てきた時平さんは早死にです。
自然災害まで祟りかというのは非科学的な面もありますが、後ろ暗い思いの方々には自責の念を拭いきれない災難の連続ですね。天皇は自責のあまり道真さんの死去から20年後に、その地位回復を図ったようですが、怨霊道真の怒りは収まらず・・な話題で世間は持ちきりだったんでしょうね〜。
ちなみに、落雷で即死した藤原清貫という人は、在原業平の孫です。
そんな恐い目に遭わせた神様の道真さんですが、前にも書いたように相当な文才・詩才があり、政治にも手腕を発揮した秀才中の秀才だったようです。今では祟り(?)の数々は忘れ去られて、全国の受験生の強い味方です。合格した暁には、是非お礼参りを。
今回の資料としてこちらを図書館で借りて読みました。
「大鏡」の次は漢詩です。多分。できれば年内に。
2023年12月11日
道真左遷F
腹巻きは編み上がりました。続けてマフラーを編んでいます。続きです。
〈本文〉
やがてかしこにてうせたまへる、夜(よ)のうちに、この北野にそこらの松をおほしたまひて、わたり住みたまふをこそは、ただいまの北野の宮と申して、荒人神(あらひとがみ)におはしますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめたまふ。いとかしこくあがめたてまつりたまふめり。筑紫のおはしまし所は安楽寺jといひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などさせたまひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けてたびたび造らせたまふに、円融院の御時の異なり、工(たくみ)ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出でつつ、またの朝(あした)にまゐりて見るに、
〈juppo〉別にマフラーなんて敢えて編まずとも何本もあるんですけどね。始めると続けたくなる編み物です。眠気覚ましにいいです。手指を動かすと脳が活性化するのだと思います。
さていよいよクライマックスです。何しろもう道真さんは亡くなってしまいました。亡くなった夜のうちに筑紫から京まで来たというんですが、根拠は?見たの?と、問いただしたくなりますよね。
とにかく京にも祀って筑紫でも祀って、代々の帝もありがたがってお参りしたり普請したりしています。別当は大きな寺の上位にいる長官で、所司は寺の仕事を司るお坊さんだそうです。
荒人神は、現人神とは違います。どちらも「あらひとがみ」と読みますが、「荒人神」は霊験あらたかで、遠慮なく姿を現して威力を見せつける神様だそうです。結構強い神様ですね。「現人神」は人の姿に身を写した神様ですよね。
そんなわけで、亡くなった途端に有難がられている道真公です。そうなったのにはいろいろと事情があります。次回、衝撃の最終回にて、その辺の事情を。近いうちに。
〈本文〉
やがてかしこにてうせたまへる、夜(よ)のうちに、この北野にそこらの松をおほしたまひて、わたり住みたまふをこそは、ただいまの北野の宮と申して、荒人神(あらひとがみ)におはしますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめたまふ。いとかしこくあがめたてまつりたまふめり。筑紫のおはしまし所は安楽寺jといひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などさせたまひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けてたびたび造らせたまふに、円融院の御時の異なり、工(たくみ)ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出でつつ、またの朝(あした)にまゐりて見るに、
〈juppo〉別にマフラーなんて敢えて編まずとも何本もあるんですけどね。始めると続けたくなる編み物です。眠気覚ましにいいです。手指を動かすと脳が活性化するのだと思います。
さていよいよクライマックスです。何しろもう道真さんは亡くなってしまいました。亡くなった夜のうちに筑紫から京まで来たというんですが、根拠は?見たの?と、問いただしたくなりますよね。
とにかく京にも祀って筑紫でも祀って、代々の帝もありがたがってお参りしたり普請したりしています。別当は大きな寺の上位にいる長官で、所司は寺の仕事を司るお坊さんだそうです。
荒人神は、現人神とは違います。どちらも「あらひとがみ」と読みますが、「荒人神」は霊験あらたかで、遠慮なく姿を現して威力を見せつける神様だそうです。結構強い神様ですね。「現人神」は人の姿に身を写した神様ですよね。
そんなわけで、亡くなった途端に有難がられている道真公です。そうなったのにはいろいろと事情があります。次回、衝撃の最終回にて、その辺の事情を。近いうちに。
2023年12月04日
道真左遷E
寒くなったので、腹巻きでも編もうかなと考えています。続きです。
〈本文〉
この詩、いとかしこく人々感じまうされきこのことどもただちりぢりになるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせたまへりけるを、書きて一巻(ひとまき)とせしめたまひて、後集(ごしふ)と名づけられたり。また折々の歌書きおかせたまへりけるを、おのづから世に散り聞えしなり。世継若うはべりしかば、大学の衆どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうのもの調(てう)じて、うち具してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、みなこそ、忘れはべりにけれ。これはただすこぶる覚えはべるなり」
といへば、聞く人々、
「げにげに、いみじき好き者にもものしたまひけるかな。今の人は、さる心ありなむや」
など、感じあへり。
「また、雨の降る日、うちながめたまひて、
あめのしたかわけるほどのなければや着てし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき
〈juppo〉編み物というと昔は連立方程式を駆使してゲージを取り、真面目に取り組んでいた頃もありましたが、年齢を重ねるにつれてただまっすぐ編む物しか作らなくなりました。
今回は世継さんも若い頃を回想しています。若い頃といっても、ここで語っている時点で190歳らしいので、この道真さんの一連の出来事はおよそ40年くらい過去を語っていますがその頃すでに充分じじいだと思われます。
その頃道真さんの境遇を耳にして大いに同情し、学のある人のところに行って道真作の詩や歌を仕入れたというわけです。
ただ学があるだけでなく、不合であることが肝心です。不合は豊かでないさま、餌袋や破子は食べ物を入れる袋や容器です。そういう人に近づいて食事をエサに、いや授業料にして、勉強させてもらったのですね。
聞いている人たちもその姿勢に感心しきりです。「今の人」にはそんな熱心さはない、というのが1000年くらい昔の人たちの感想です。
世継は、老いのせいで「忘れはべり」とかなんとか言っていますが、本心でしょうか。謙遜でしょうか。謙遜に粉飾した自慢に聞こえなくもありません。
世継のリサイタルが続いております。実は道真さんの出番はもうあまりないんです。お話はあとちょっとあります。編み物を始めて夢中になり、更新に影響しないよう気をつけます。
〈本文〉
この詩、いとかしこく人々感じまうされきこのことどもただちりぢりになるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせたまへりけるを、書きて一巻(ひとまき)とせしめたまひて、後集(ごしふ)と名づけられたり。また折々の歌書きおかせたまへりけるを、おのづから世に散り聞えしなり。世継若うはべりしかば、大学の衆どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうのもの調(てう)じて、うち具してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、みなこそ、忘れはべりにけれ。これはただすこぶる覚えはべるなり」
といへば、聞く人々、
「げにげに、いみじき好き者にもものしたまひけるかな。今の人は、さる心ありなむや」
など、感じあへり。
「また、雨の降る日、うちながめたまひて、
あめのしたかわけるほどのなければや着てし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき
〈juppo〉編み物というと昔は連立方程式を駆使してゲージを取り、真面目に取り組んでいた頃もありましたが、年齢を重ねるにつれてただまっすぐ編む物しか作らなくなりました。
今回は世継さんも若い頃を回想しています。若い頃といっても、ここで語っている時点で190歳らしいので、この道真さんの一連の出来事はおよそ40年くらい過去を語っていますがその頃すでに充分じじいだと思われます。
その頃道真さんの境遇を耳にして大いに同情し、学のある人のところに行って道真作の詩や歌を仕入れたというわけです。
ただ学があるだけでなく、不合であることが肝心です。不合は豊かでないさま、餌袋や破子は食べ物を入れる袋や容器です。そういう人に近づいて食事をエサに、いや授業料にして、勉強させてもらったのですね。
聞いている人たちもその姿勢に感心しきりです。「今の人」にはそんな熱心さはない、というのが1000年くらい昔の人たちの感想です。
世継は、老いのせいで「忘れはべり」とかなんとか言っていますが、本心でしょうか。謙遜でしょうか。謙遜に粉飾した自慢に聞こえなくもありません。
世継のリサイタルが続いております。実は道真さんの出番はもうあまりないんです。お話はあとちょっとあります。編み物を始めて夢中になり、更新に影響しないよう気をつけます。
2023年11月27日
道真左遷D
急にもの凄く寒いです。かつくしゃみが止まらないのはすでにスギ花粉の気配です。続きです。
〈本文〉
鐘の音を聞き召して、作らせたまへる詩ぞかし。
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)二瓦ノ色ヲ看ル
観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴ク
これは、文集(もんじふ)の、白居易の「遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ枕ヲ欹(そばだ)テテ聴キ、香炉峯(こうろほう)ノ雪ハ簾(すだれ)ヲ撥(かかげ)テ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏にて菊の宴ありしに、この大臣(おとど)の作らせたまひける詩を、帝かしこく感じたまひて、御衣(おんぞ)たまはりたまへりしを、筑紫に持て下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召し出でて、作らしめたまひける、
去年今夜侍清涼
秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香
去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)二侍リキ
秋思(しうし)ノ詩篇独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)ツ
恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)今此(ここ)二在(あ)リ
捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル
〈juppo〉さてさて、涙無くしては読めない展開になってきた道真さんの筑紫生活です。何を見てもため息な日々です。それでも有り余る才能が詩を作らせてしまい、その詩がいちいち素晴らしいと。
「白氏文集」は白居易の詩を集めたもので、白居易は中国の詩人です。またの名を白楽天。「香炉峰の雪」といえば「枕草子」でもネタにされていましたね。ここではその詩を意識していながら、オリジナルを超えてんじゃん!てな評価のようです。
九月九日は重陽の節句で、宮中では菊を見る宴を催していたんですね。ご褒美に着物をいただくというのも、他の作品で見ました。清涼殿は帝のお住まいです。いただいた着物の残り香は、何の香りでしょう。帝が炊いていた香の香りなんでしょうね。おそらく。
別れたり、亡くしたりしてもう会えない人の、衣服や何かの香りから思い出が止まらなくなっちゃうことって、ありますよね。良いことも悪いことも、嗅覚と記憶はかなり強く結びついているんですよね。
この境遇にあってこの詩作の才。伝説になるには充分ですが、さらに神になってしまうまで、もう少しです。以下次号。
〈本文〉
鐘の音を聞き召して、作らせたまへる詩ぞかし。
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)二瓦ノ色ヲ看ル
観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴ク
これは、文集(もんじふ)の、白居易の「遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ枕ヲ欹(そばだ)テテ聴キ、香炉峯(こうろほう)ノ雪ハ簾(すだれ)ヲ撥(かかげ)テ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏にて菊の宴ありしに、この大臣(おとど)の作らせたまひける詩を、帝かしこく感じたまひて、御衣(おんぞ)たまはりたまへりしを、筑紫に持て下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召し出でて、作らしめたまひける、
去年今夜侍清涼
秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香
去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)二侍リキ
秋思(しうし)ノ詩篇独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)ツ
恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)今此(ここ)二在(あ)リ
捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル
〈juppo〉さてさて、涙無くしては読めない展開になってきた道真さんの筑紫生活です。何を見てもため息な日々です。それでも有り余る才能が詩を作らせてしまい、その詩がいちいち素晴らしいと。
「白氏文集」は白居易の詩を集めたもので、白居易は中国の詩人です。またの名を白楽天。「香炉峰の雪」といえば「枕草子」でもネタにされていましたね。ここではその詩を意識していながら、オリジナルを超えてんじゃん!てな評価のようです。
九月九日は重陽の節句で、宮中では菊を見る宴を催していたんですね。ご褒美に着物をいただくというのも、他の作品で見ました。清涼殿は帝のお住まいです。いただいた着物の残り香は、何の香りでしょう。帝が炊いていた香の香りなんでしょうね。おそらく。
別れたり、亡くしたりしてもう会えない人の、衣服や何かの香りから思い出が止まらなくなっちゃうことって、ありますよね。良いことも悪いことも、嗅覚と記憶はかなり強く結びついているんですよね。
この境遇にあってこの詩作の才。伝説になるには充分ですが、さらに神になってしまうまで、もう少しです。以下次号。